2024年6月16日礼拝
ペトロの手紙一 1章6~9節

それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。


 使徒ペトロは、「あなたがたは、心から喜んでいるのです」「言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」と言い、信仰者の人生は喜びの人生であると語ります。それは、人生の苦しみや困難、試練を知らないということではありません。試練を超える大きな喜びがあり、試練を通して喜びが増し加えられていく、ペトロは、そのことを知ってほしいと願っているのだと申し上げることができます。

 おいしい食べ物を食べたり、何か欲しいものを獲得したり、願っていたことを達成したり、doingの喜びがあるでしょう。それらは人生を彩る大切な喜びですが、一時的で、過ぎ去る喜びでもあります。それらの喜びはいつしか色あせてしまうでしょう。それに対して、beingの喜び、存在そのものを喜ぶ喜びがあります。家族や友人が自分のことを大切にしてくれる。苦しみや困難があっても、一緒に乗り越える伴侶や仲間が与えられている。このbeingの喜びが人生には欠かせません。

 そのもっとも根源的なものが神に愛されているということです。6節の「それゆえ」は、直接には3節から5節を受けていますが、2節にさかのぼり、「あなたがたは、父である神があらかじめ立てられたご計画に基づいて……選ばれたのです」とあります。父なる神が私たちを愛して選んでくださいました。ですから、神の愛です。神の愛によって、私たちは復活のキリストに結び合わせられて新たに生まれさせられ、終わりの時まで守られています。主なる神が私たちのことを愛して、喜びとしてくださっている。私たちの存在は根底から神によって支えられているのであり、ここにbeingの喜びの究極があります。ペトロは、この神から来る喜びを「今しばらくの間、いろいろな試練に苦しまなければならなくても、心から喜びなさい」(フランシスコ会訳)と言います。

 ペトロは、この喜びが試練にも打ち勝つことを教えます。それは、主なる神は、私たちを襲う悪や苦しみ、困難をそのままになさるお方ではないからです。エジプトに売られたヨセフは、自分を襲った苦しみについて言いました。「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」(創世記50:20)。悪や苦しみ、困難も、決して神の御手の外にあるのではありません。神のご支配の中におかれていて、主なる神は、それら悪や苦しみ、困難を良いものとして造り変えてくださいます。

 ですから、試練は「今しばらくの間」です。ずっとではなく、制限されています。時間的にだけでなく、神が範囲を定めて、限界づけておられます。神が手綱を握っておられ、ですから、乗り越えることができないような苦しみはありません。また、悪や苦しみ、困難を、主なる神は、私たちを練り清めて、成長させるためにお用いくださいます。金が火で精錬されて純粋なものとされるように、また、金さえ朽ちるものだが、あなたがたは決して朽ちることがない、尊いものへと変えられる、と言われます。「イエス・キリストの現れるとき」、「称賛と光栄と誉れとを」いただくにふさわしい者とされるのです。こうして、主なる神は、苦しみを私たちを滅ぼすために用いられるのではなく、私たちの信仰を成長へと導くために用いられます。主なる神は、万事をあい働かせて、信仰者の益としてくださるお方にほかなりません(ローマ8:28)。

 こうして、信仰者は、試練の中でも希望の内に喜びをもって歩み続けることができます。この試練に打ち勝つ喜びをいただいて、私たちは苦しみの中でも忍耐強く歩み続けます。天地を統べ治めたもう神が、試練を乗り越えることができるよう、私たちに道を備えてくださっています。こうして、私たちは試練の中でも喜びをもって歩み続けるのです。