2025年5月11日礼拝
マタイによる福音書 5章1~12節
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」(1~7節)
主イエスは山に登り、腰を下ろして、「幸いである」とおっしゃいました。聖書の原文で3節は、「幸いなるかな、心の貧しい人々は、天の国はその人たちのものである」です。3~10節、また11節も、すべて「幸いなるかな」で始まっていて、一般的に「八福の教え」と言われます。「山上の説教」は、この幸い、祝福を告げる言葉で始まっています。
山上の説教は、聖書の言葉の中で比較的よく知られています。文学作品で取り上げられることもあります。その場合、倫理的な教えとして取り上げられることが多いでしょう。山上の説教は「人類の最高の倫理」と言われ、確かに倫理的道徳的な教えとして読むことができます。人間の理想的な姿を思い巡らすことができるのです。しかし、それを実践しようとすると、その倫理的な高さに苦しめられることが起こります。私たちの前に高く立ちはだかる壁のようにも思われるものなのです。
心に留めましょう。山上の説教は祝福の言葉であって、決して倫理道徳を第一に教える言葉ではありません。主イエスは、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と呼びかけて、御国の福音を宣べ伝えられました。病に苦しみ、悲しみや痛みの中にある人びとをいやし、立ち上がらせられました。そうして、みもとに集まってきた人びとに「幸いなるかな」と語られました。ですから、山上の説教はすべて、主イエスの呼びかけに応えて悔い改めるために集まってきた人びとに向けて語られた言葉です。
「幸いなるかな、心の貧しい人々は、天の国はその人たちのものである」。「心の貧しい」とは心が空っぽな状態を意味し、自らの欠けを知ることだと言えるでしょう。欠けを知り、認めるとき、神によって満たしていただくことができます。「心の貧しい」とは、ですから、神の御前にへりくだることであり、悔い改めることです。天の国は、悔い改めて神に立ち帰る、主イエスの弟子たちのものです。主イエスは、神のみもとに立ち帰る人びとの、神共にいます幸いを告げておられます。
「悲しむ人びとは幸いである」。心痛む悲しい出来事を経験して、生きるとは悲しむことだと思わされます。しかし、そのような人生の悲しみを知っていると、人は優しくなれます。見せかけの優しさではなく、人間の根っこからの優しさです。そういう優しさを身に着けて、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12:15)とあるように、人を慰め、励ます者でありたいと思わされます。そして、実に主イエス・キリストこそが生きることの悲しさを極みまで味わってくださいました。私たちの悲しみをすべて、極みまで、主イエス・キリストがご存知です。
「柔和な人々は、幸いである」。「柔和」とは謙そんを意味しますが、性格としての謙そんではありません。直接には、うなじ柔らかにうなずくことですが、何の力も持たず、自分の意見を言って拒否できないため、うなずくことです。そのような無力な人びとが幸いだと言われます。また、「義に飢え渇く人々」とは、命の尊厳が失われるような中で、正義に対する飢え渇きを覚えている人びとです。いったいどうして社会はこれほど理不尽なのかと思わされる、その苦しみの中に置かれている人びとが幸いだと言われます。これらはたいへん不思議に思えますが、これは主イエスがその人たちと共におられるからです。救い主の父である神は、そのような人びとの神であることを御心とされるお方なのです。
「幸いなるかな」。父なる神は、このイエス・キリストを罪と死の力に打ち勝たせ、復活させました。復活の命、とこしえの命、新しい命を生きる者とされました。この主イエスにこそまことの慰めがあり、励ましがあり、平安があります。「幸いなるかな」。主イエスのこの御声を聞き、神の御前に立ち帰る者こそ、神共にいます幸いな者なのです。

