2025年4月27日礼拝
マタイによる福音書 28章11~20節
婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。(11~15節)
主イエスが復活された、その続きの出来事です。番兵たちは、動けるようになると自分たちを遣わした祭司長たちのところに帰り、起こった出来事をすべて報告しました。主イエスの遺体を盗み出されないために遣わした番兵たちが、あろうことか主イエスの復活の証人にされて、祭司長たちは怒りではらわたの煮えくり返る思いだったでしょう。
ユダヤの指導者たちが皆集まって相談します。主イエスの復活などあり得ない、復活などあってはならない。彼らはそう考えて、この出来事を覆い隠すことにしました。兵士たちに多額の金を与えて、弟子たちが遺体を盗み出したことにしようとしたのです。もし総督の耳に入ることがあっても、君たちの責任にならないように対処すると言って兵士たちを説得し、兵士たちはその説得に応じて、お金を受け取りました。まことに人間はお金の誘惑に弱い。その具体例を示される思いがいたします。
一つには、ここに人間の罪が明らかにされています。ユダヤの指導者は、主イエスが偽証して神を冒とくしたと言って、総督ピラトに訴え、主イエスを十字架刑につけました。しかし、真実には彼らが偽証して主イエスを訴えていたのです。彼らは自分たちの偽りを覆い隠すために偽りを重ねます。お金で偽証させて真理を隠します。偽りが偽りを生みます。罪が罪を生み、また罪へと陥っていきます。恐ろしいばかりです。そうして自分たちを偽りで塗り固めて、しかし、彼らは決して平安であれなかったでしょう。罪の悲惨がここにあります。しかし、彼らだけではありません。私たちにも偽りで自分を守ろうとする性質があります。私たちも罪へと傾いていることを認めざるを得ない罪人なのです。
もう一つとして、ここに主イエス・キリストの勝利、恵みの神の勝利、福音の勝利が明らかにされています。神の国の福音は、人間の妨げによって押しとどめることができるものではありません。このような妨げにもかかわらず、かえって逆に確かなこととして、主イエス・キリストの復活が証しされることになりました。主なる神は、まことに神であられます。人間は企み、反対し、妨害するでしょう。しかし、それを越えて、神は不思議な仕方で真理を明らかにし、勝利されます。教会の歴史においても、教会は多くの迫害を経験し、困難の中に置かれました。しかし、そこにおいても神が大いに働かれ、福音が宣べ伝えられました。教会が全世界に建てられ、広げられてきました。神のその圧倒的な勝利を前にして、私たちが偽りを重ねてしまうなら、何と愚かなことでしょう。人間の偽りや罪に、ついに勝利が訪れることはありません。
主なる神は、ご自身に敵対する者をもお用いになります。祭司長や長老たち、番兵たちです。逆説的な仕方ですが、彼らも主イエスの復活の証人とされました。しかし、それは悲しい仕方です。それに対して、女性たち、弟子たちは文字どおり主イエスの復活を証しして、復活の証人とされました。ガリラヤへと向かい、主イエスが指示しておられた山で、全世界の人びとに福音を宣べ伝えるように命じられました。同じく主に用いられるならば、こちらの用いられ方をしたいと思うのです。積極的、肯定的な仕方で、喜びをもって主に用いられる者でありたい。
そのために、主イエス・キリストが十字架につけられてくださいました。私たちの罪を背負い、罪の縄目から贖い出して、私たちをご自分のものとしてくださいました。そして、そこでこそ人は真実に平安に憩うことができます。健やかに、また晴れやかに生きることができます。不安や恐れをぬぐい去られて、神の御前にまっすぐに立つことができます。そのような生き方が、何と好ましいことでしょうか。主なる神は、この健やかで平安な人生を生きることへと私たちを招いておられます。

