2025年5月25日礼拝
マタイによる福音書 5章1~12節

「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
 義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(7~12節)


 「いかに幸いなことか」と言って始まる「八福の教え」は、神の御言葉を聞く幸いを教えています。幸いが八つとは、神の国に生きる人生の豊かさを示していると言えるでしょう。後半の7~12節では、おもに隣人との関係、隣人を自分のように愛する幸いが取り上げられています。

 「憐れみ深い人々は、幸いである」。「憐れみ深い」とは、何よりも神ご自身の性質です。主イエスは人びとが飼い主のいない羊のように弱り果てているのを見て、深く憐れまれました。父なる御神も、エジプトで苦しんでいたイスラエルの民の嘆きを聞いて憐れみ、御手をもって導き出されました。その神の憐れみを知って、私たちも憐れみに生きるのです。そして、「憐れみ深いとは」、私たちも自分の手を差し出すことです。憐れむ心で手を差し伸べる、その私たちと共に主なる神がおられます。神は憐れむ私たちを豊かに憐れんでくださるお方です。

 「心の清い人々は、幸いである」。「心の清い」とは、心に混じりけや濁りがないことです。心があちらこちらに向かって分裂していると、心が騒ぎ、濁ってしまいます。もてなしのためにせわしく立ち働いていたマルタに主イエスがおっしゃいました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」(ルカ10:41,42)。必要なただ一つのことを求める、一筋の心が大切です。そして、「その人たちは神を見る」と言われます。神は隣人を通して私たちに語りかけ、働きかけてくださるお方です。私たちが神の御前に一筋の心で生きるとき、あの人の内に神がおられる、この人の内にも神がおられると気づかせられるでしょう。そのようにして、人の内に生きて働いておられる神を見る者とされるのです。

 「平和を実現する人々は、幸いである」。「平和を実現する人びと」とは、平和を創り出す人びとです。「その人たちは神の子と呼ばれる」とあります。主イエスの時代、ローマ皇帝アウグストゥスが神の子と呼ばれていました。彼は強大な軍事力によって周りの国々を支配下に治め、ローマ世界に平和をもたらしました。しかし、主イエスは彼が神の子なのではないとおっしゃいます。生きる悲しみを知り、憐れみを知って生きるあなたがたこそ、真に平和を創り出す者にほかならない。主イエスはそうおっしゃいます。そして、主イエスご自身、剣をさやに納めるようにおっしゃって、十字架につけられました。人びとに寄り添い、憐れみと真実に生きることによってこそ、真実の平和が創り出されるのです。

 「義のために迫害される」とは信仰のゆえに迫害されることです。「わたしのために罵られ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」とある通りです。神の義を求めて迫害されるとき、私たちは大いに喜ぶことができる。天に大きな報いがあるからです。とこしえの御国の幸いがあります。天において御父が大いに喜んでおられます。神が、迫害を耐え忍ぶ私たちのことを喜びとしてくださっています。それゆえ、私たちも喜びます。

 主イエスは、こうして悪に負けることなく神の義に生きることを教えてくださいました。苦難をも誇りとし、喜びとする生き方です。主イエスは、悲しみや痛み、憐れみを知る人生にこそ真実の幸いがあるとおっしゃいます。私たち自身は悲しみを知ること少なく、憐れみ深くなく、心が清いとも言えません。けれども、神の御言葉と聖霊によって造り変えられ、新しくされます。一筋の心で神の義を求め、隣人の内に神を見る幸い、豊かさが与えられるのです。主イエスは、こうして人生の真実を知る幸いを私たちに約束しておられます。それゆえ、私たちは天に備えられている報いを待ち望み、忍耐強く、喜びをもって歩み続けるのです。