2024年12月1日礼拝
イザヤ書9章1~6節

闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
あなたは深い喜びと、大きな楽しみをお与えになり、人々は御前に喜び祝った。
刈り入れの時を祝うように、戦利品を分け合って楽しむように。
彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を、あなたはミディアンの日のように、折ってくださった。
地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服はことごとく、火に投げ込まれ、焼き尽くされた。
ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
権威が彼の肩にある。
その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。
ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。
王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。
万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。


 「地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服はことごとく、火に投げ込まれ、焼き尽くされた」。預言者イザヤは、戦争が終わり、平和が実現することを告げ知らせました。過去形の文章ですが、「預言者的過去」と呼ばれます。神に信頼して、まだ見ぬ将来のことをすでに起こったことのように語るものです。ですから、すでに戦争が終わったわけではありません。戦争を前にして、やがて来る平和を告げ知らせたのです。当時、すでに北王国が滅ぼされていました。しかし、エルサレムには神殿があるので、神は必ずやエルサレムを守られるという楽観主義的な期待が人びとの心にありました。神殿では犠牲のいけにえをささげるだけの、形ばかりの礼拝が行われていました。社会的にも正義が失われていました。それゆえ、イスラエル(南王国)は戦争で滅ぼされ、バビロン捕囚が起こります。イザヤは、その戦争を越えて、やがて来る平和と救い主の到来を告げました。救い主メシアを待ち望むことと平和を待ち望むことは、聖書においては一つのことです。イザヤは、真の平和を実現するお方をこそ救い主メシアとして待ち望むよう、呼びかけました。

 鍵となる御言葉は3節です。「ミディアンの日のように」。士師記7章に記される出来事です。ミディアン人がイスラエルに攻め込むことが続く中、ギデオンが民全体に呼びかけると、3万2千人のもの人びとが戦いのために集まりました。ところが、主なる神はおっしゃいます。「あなたの率いる民は多すぎる」。主なる神は兵士を減らすよう求めて、ギデオンは300人で戦うことになりました。ギデオンは、その300人で敵の自滅を誘い、いなごのような大軍に勝利することができたのです。すなわち、「ミディアンの日」とは勝利の日でありますが、自分たちの力による勝利ではありません。神ご自身が戦いを勝ち取られた日であり、戦わずして戦いに勝利した日です。私たち人間の理解の及ばない勝利です。

 やがて、そのような勝利を成し遂げて、平和を実現するお方が来られる、それが聖書の告げる救い主メシアです。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある」。その権威とは神の権威です。ですから、人間の力によって平和をもたらすのではありません。「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」。「驚くべき」とは英語のワンダーで、不思議ということです。不思議な指導者である。私たち人間の思いや理解を超えている、私たちの思い浮かべたことのないお方である。

 その通り、主なる神がお遣わしくださった救い主は、私たちの理解を超えた、まことに驚くべきお方、不思議なお方でありました。田舎の小さな町ベツレヘムで、飼い葉桶に寝かされるという仕方で、小さく無力な乳飲み子としてお生まれになりました。このみどりごは、誕生に際してすでに命の危険にさらされていました(マタイ2章)。ひょっとするとひょっとするならば、生まれてただちに殺されていたのかもしれない、無力な有り様であったのです。そして、その無力な姿のまま、福音を宣べ伝えて歩まれ、多くの苦しみの果てに十字架につけられてくださいました。聖書は、この無力なみどりごこそが救い主であると言います。それは、このみどりごの誕生と十字架に神の愛があるからです。私たちをご自分のみもとに立ち帰らせる、神の愛がここにあるからです。

 救い主イエス・キリストの御降誕によって、すでに明けの明星が昇り、光り輝いています。確かに神からのまことの光であるお方が来てくださいました。ですから、私たちはもはや暗闇の中で待つのではなく、光に照らされて待つ者とされています。再び来られる主イエス・キリストを待ち望み、神のみもとに立ち帰る歩みを確かにして参りましょう。