2024年10月6日礼拝
フィリピの信徒への手紙 4章4~7節
主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
「喜び」は聖書全体の大切な主題の一つです。聖書が告げ知らせる救いを「福音」と呼びますが、「福音」とは良き訪れ、喜びの知らせという意味です。聖書全体が喜びを告げる書物であり、キリスト教信仰は喜びの信仰だと申し上げることができます。生涯をかけて福音の喜びを追い求める、それが私たちキリスト者の歩みだと言えるでしょう。
パウロは「常に喜びなさい」と言います。「常に」とは、決していつもワハハと笑っているようなことではないでしょう。人生とは笑っていることができる時ばかりではありません。わたしは、この喜びは、地面の下を流れる川の流れ、伏流水のようなものだと思います。いつも表に現れているわけではありませんが、地面の下にはしっかり水が流れている。そのように、信仰者の内側には喜びの川が流れている。喜びが大きな大きな大河のように流れている。信仰者は、そのような、内側を流れる喜びに絶えず支えられて生きているのです。悲しみの時があり、苦しみを味わって泣き叫ぶ時もあるでしょう。しかし、内側にはいつも喜びがある。悲しみや嘆きによっても決して失われることのない、とこしえの喜びがある。それが、この「常に喜ぶ」ということです。
その点で、「主において」ということが大切です。主イエスに結ばれて喜ぶのであり、私たちの喜びの理由、根拠は主イエス・キリストです。常に喜んでいる、その喜びは、生けるまことの神の側に根拠がある喜びです。それゆえ、その喜びは決して変わることがなく、失われることがありません。とこしえの喜びです。また、その喜びは「にもかかわらず」の喜びです。私たち自身の状況は喜ばしいものではないかもしれません。悲しみや苦しみを耐え忍ばなければならないかもしれません。「にもかかわらず」です。パウロがこの手紙を書き送ったフィリピの教会にも争いと不一致があったようです。にもかかわらず、「喜びなさい」と言われます。生けるまことの神に喜びの根拠があるからです。
「主において常に喜びなさい」。これは、主イエス・キリストを見つめて、キリストを仰いで歩むことへの招きの言葉です。生けるまことの神は、罪と死に捕らえられている私たちを見捨てることなく、ご自身の独り子さえ惜しむことなく与えてくださいました。そうして、私たちが御父のもとに立ち帰ることを、御父ご自身が喜んでくださっています。放蕩息子のたとえの父親は、息子の帰りを待ちわびていて、帰ってくると遠くまだ離れていたのに息子を見つけて走っていって抱き寄せて、喜びの宴会を開きました(ルカ15章)。そのように、父なる神ご自身が私たちのことを喜んでくださっています。ですから、私たちもキリストの十字架の恵みによって神の御前に立ち帰ることができたことを心から喜びます。
パウロは、続いて「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい」と言います。キリストの十字架はわたしに差し出されるだけではありません。キリストは罪の赦しの恵みを多くの方に差し出しておられ、私たちは互いに罪を赦し合います。共に和解の恵みに生きて、それゆえ広い心です。また、主イエスに結ばれて、私たちを愛してくださる御父に信頼して委ねて生きることへと導かれます。何事であっても感謝し、思いを打ち明けて祈ることができます。すなわち、主イエス・キリストに結ばれて、神の恵みはあふれるほど豊かで確かなのです。とりわけ、喜びが私たちを内側から支えて生かし、また、ふさわしく表に現れ出て、私たち自身、キリストの香りを放つ者として整えられていきます。
主イエス・キリストを通してこの神を知り、神をほめたたえて歩むところに信仰者の喜びがあり、希望に満ちた人生があります。主を賛美して礼拝し、生き生きとした喜びに支えられた人生を共に歩んで参りましょう。