2025年1月19日礼拝
ペトロの手紙一 5章8~11節

身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。力が世々限りなく神にありますように、アーメン。


 ペトロの手紙一は、手紙を締めくくるに際して、神の御力によって守られている幸いを私たちに思い起こさせます。「あらゆる恵みの源である神が……あなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます」。なおしばらくの間、苦しまなければなりませんが、私たちは神の力強い御手によって守られているのです。

その神の御手に支えられて、「身を慎んで目を覚ましていなさい」、「信仰にしっかり踏み留まって、悪魔に抵抗しなさい」と命じられています。私たち自身も、志を強くして戦うことが求められています。「身を慎む」とは酒に酔っていないことを意味し、酔うとは、この場合、悪魔のささやきや自らの欲望に酔うことだと言えるでしょう。エデンの園のアダムとエバは、「神のように善悪を知る者となる」という蛇の声に酔って、自分の栄光を求める思いに陥りました。私たちはしばしば欲望のゆえに自らを見失います。誘惑の声に酔ってしまうならば、私たちはたちまち悪魔に食い尽くされてしまいます。そうであってはなりません。

 身を慎んで目を覚ましているとは、神の御言葉に聞き、祈ることにほかなりません。御言葉に基づいて、何が神に喜ばれることで、何が神を悲しませることなのか、注意深く見分けます。そして、4章7節に「身を慎んで、よく祈りなさい」とある通り、主なる神に信頼して祈ります。祈ることによってこそ、目を覚ましていることができるのです。そして、私たちが信仰に踏みとどまることができる、それは主なる神が私たちの力となり、神が私たちのことを心にかけていてくださるからです。

 神の力強いお働きが四つの言葉で示されています。「完全な者とする」とは魚を取る網の破れを繕うことを意味し、破れや欠けのない者とされるということです。主なる神は、永遠の栄光にふさわしく私たちを整えて、善いものとしてくださいます。「強める」は固定するという意味の言葉で、新改訳では「堅く立たせる」と翻訳されています。「力づける」は強さで満たすという意味です。私たち自身が強いのではありません。主なる神が強いのであり、主イエス・キリストの御力によって強くされます。誘惑に勝利された主イエス・キリストの御力によって、私たちは悪魔に抵抗するものとされます。「揺らぐことがないようにする」とは土台や基礎を固めることを意味します。主なる神こそが私たちの土台です。主イエス・キリストを土台とし、この岩の上に生きるところに私たちの幸いがあります。これらは言葉を重ねて神の力強さを言い表すものであり、神の力はそれほどに大きく力強いものなのです。

 挫折と失敗の経験を持つペトロは、信仰者の戦いが自分の戦いであると同時に、神ご自身が戦ってくださるものなのだと、身に染みてよく分かっていました。自分の破れが繕われ、神の御力によって立てられていること、主なる神こそが揺らぐことのない土台であること、その神の恵みをペトロ自身、豊かに味わって、その尊い経験から、これらの言葉を語ったのです。ですから、これらはペトロの信仰告白の言葉だと言うべきでしょう。破れと弱さを抱えている自分を主なる神が繕い強めてくださっている、その神の大きな恵みの御力をほめたたえたのです。

 それでペトロの口から神をほめたたえる賛美の言葉がほとばしり出ます。「力が世々限りなく神にありますように、アーメン」。「ありますように」は、力が確かに神にあるという確信の表明であり、賛美の言葉です。この賛美の声に、私たちも心を一つにして「アーメン」と唱えます。力強い神に依り頼み、身を慎み目を覚まして、信仰の歩みを重ねて参りましょう。この力強い神が、私たちを永遠の栄光へと招き入れ、終わりの日に私たちの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださるのです。