2024年9月1日礼拝
ペトロの手紙一 2章18~25節

召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。……そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。


 当時、家庭の中でさまざまな働きに従事していた奴隷がいました。そして、その奴隷の中からも、福音を受け入れて信仰を持つ者が多く起こされていました。ペトロは、その奴隷に対して、「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい」と命じます。「無慈悲な主人にもそうしなさい」とあり、たとえ主人が横暴であったとしても従いなさいと言います。また、「御心に適うこと」とはカリスというギリシア語で、「恵み」という意味の言葉です。ペトロは、たとえ苦しみを受けたとしても、神が望んでいることと受け止めて耐え忍ぶならば、それは恵みであると言います。いったいどうしてそのように言うことができるのでしょうか。

 奴隷制度は、本来、あってはならないものです。けれども、当時、奴隷制度は普遍的、一般的で、変えることのできないものでした。信仰者とされて、教会では「自由人も奴隷もない」と教えられながら、しかし、家に帰ると自分は奴隷である。目の前には横暴な主人がいて、理不尽な要求を突きつけてくる。その現実を変えることはできず、そこから逃げ出すこともできない。聖書が私たちに示すのは、そのような変えられない現実の中でいかに生きるのかということです。

 もちろん、変えることに取り組んでもよいのです。フィレモンへの手紙によると、パウロは逃亡奴隷オネシモの赦しを主人フィレモンに願い求めました。フィレモンは、その願いを聞き入れて逃亡奴隷を自由の身にしたようです。パウロは奴隷を解き放つために力を尽くしたのであり、そのような取り組みも大切です。しかし、それも奴隷制度そのものがなくなったわけではありません。変えることのできない現実は残り続けました。

 22節から24節に、主イエス・キリストのへりくだりを歌うキリスト賛歌が記されています。キリストは、罪を犯すことがなかったにもかかわらず、罪人として訴えられ、苦しみを耐え忍ばれました。私たちが不当な苦しみに遭ったとき、そのキリストを思い起こします。キリストは、自分を捕らえて苦しめた相手を憎んだり、呪ったりはしませんでした。キリストは、いやいやではなく、怒りや敵意をむき出しにすることもなく、自らの意志で十字架を引き受けられました。苦しみにも御父の御計画があり、罪人である私たちのための大切な意味があることを確信して、奴隷の精神で仕方なくではなく、自由な者として自らの意志で、苦難を耐え忍ばれました。私たちは、苦しみにおいて、そのキリストを見つめて、キリストにならうことへと導かれます。たとえ不当な扱いをされたとしても、自由な者として苦難を耐え忍びます。そのとき、私たちは決して奴隷ではありません。信仰による自由に基づいて耐え忍び、そのことを通して自らの自由と尊厳を言い表して、キリストと一つにされて生きるのです。

 そのときまた、私たちは、同じように苦しみの中にある方々のかたわらに立つ者とされます。少し優しくなることができます。神の憐れみを知ることによって、自分自身も憐れみ深く生きる者とされるのです。

 現代においても、理不尽なことがあり、不当な目に遭わされることがあるでしょう。その理不尽さの中で、奴隷になるのではありません。神がなさることに無駄なことはなく、負いきれない重荷を背負わせられることもありません。ですから、憎しみや怒りに捕らえられることなく、神に喜ばれる善を祈り求めます。そして、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の恵みにほかなりません。こうして、変えられない現実の中で、信仰的に生きる自由があります。喜びと希望を抱いて、感謝して生きることができます。今や私たちは、大牧者である主イエス・キリストが導いてくださる羊の群れに加えられて、この真実の自由に固く立ち、神のものとして生きることができるのです。