2024年10月13日礼拝
ペトロの手紙一 3章18~22節
キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。……キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。(18,19,22節)
「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました」とは、主イエス・キリストの十字架の御苦しみを指しています。主イエスは地上の生涯の中で何度も苦しみを味わわれたでしょう。それは十字架を頂点とする苦しみであり、私たち罪人のために、ついにただ一度、決定的な仕方でご自身を十字架にささげて、すべての苦しみを味わい尽くしてくださいました。そして、「キリストは、天に上って神の右におられます」と続く通り、罪と死に勝利して、高く上げられたお方でもあります。主イエスは今や栄光を受けて父なる神の右に座し、真実には、天使も権威もあらゆる勢力も、このキリストのご支配に服すものとされているのです。
このキリストのへりくだりと高く上げられることは、私たちを救いに入れて、高く引き上げてくださるためにほかなりません。それでペトロは、「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」と語ります。この「捕らわれていた霊たち」とは、「ノアの時代に……、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者」であり、また、4章6節の「死んだ者にも福音が告げ知らされた」とある「死んだ者」を指しています。すなわち、罪と死の力に捕らえられて、霊において神に対して死んでいる、私たち罪人のことです。主イエスは町々村々におもむかれ、病をいやし、悪霊を追放し、くすしき御業、力ある御業を行い、神の御言葉を告げ知らされました。まさにキリストは、へりくだって地上に来て、霊的に罪と死の力に捕らわれていた私たちに福音を宣べ伝えてくださいました。十字架の御業によって私たちを罪から贖い出し、私たちをいと高きところ、天の御国へと引き上げてくださいます。生けるまことの神のみもとへと私たちを導いてくださるのです。
「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」は、使徒信条の「陰府に降り」と一つのこととして理解される御言葉です。「陰府」とは人間の味わう苦しみの極みを表す言葉です。わたしは中学生のとき、病気のため入院しました。そのため学校に行くことができず、自宅から遠い病院のため親もあまり面会に来られず、自分はずいぶん遠く離れたところに来てしまったなあと思い、孤独にさいなまれました。その中で詩編139編の御言葉が与えられました。「どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。……陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにもいまし、御手をもってわたしを導き、……わたしを捕らえてくださる」(7~10節)。地上の人生において私たちは陰府の苦しみを味わいます。そして、私たちが陰府の苦しみに置かれるとき、そこに十字架のキリストが立っておられます。罪と死の力にもがき苦しむ私たちの傍らに立つ、そのために主イエスは十字架につけられたのです。それゆえ、もはや私たちは決して一人ではなく、孤独でもありません。ここに信仰者の慰めがあり、幸いがあります。そして、今も戦禍や災害の中で陰府の苦しみを味わっている人びとがおられます。その傍らに主が共におられる、そのことを求めて祈ります。
今日の箇所は、当時の洗礼についての教えを用いながら語ったものと考えられます。かつてノアとその家族が水を通り抜けて救いに入れられたように、私たちは洗礼を通して復活のキリストに結び合わせられて、救いに入れられます。ペトロは、私たちの罪のためにただ一度決定的に苦しまれたキリストを信じなさいと言って、洗礼を受けることへと私たちを招きます。へりくだって人となり、陰府にまで降った主イエス・キリストが私たちを助け、立ち上がらせてくださいます。主イエスを信じて洗礼を受け、主が共にいてくださる人生を希望を持って歩んで参りましょう。