2024年10月20日礼拝
ペトロの手紙一 4章1~6節

キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。……死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。(1,2,6節)


 ペトロは、私たち信仰者を励まして、「あなたがたも同じ心構えで武装しなさい」と勧めます。「キリストは肉に苦しみをお受けになった」とは、主イエスが人間となって受けてくださったすべての苦しみを意味します。「罪のためにただ一度苦しまれました」(3:18)とある、十字架を極みとするすべての苦しみです。神の御子であるお方が人として生まれ、十字架において人間が受けるあらゆる苦しみを味わい尽くしてくださいました。私たちは、その御苦しみによって、神の子とする霊を受け、朽ちることのない永遠の財産を受け継ぐ者とされました。そうして、地上を超えた永遠の幸いに目を注ぐことへと導かれたのです。それゆえ、私たち信仰者は、天からの武具を身に着けて武装し、霊的な戦いを戦います。

 その戦いは、悪の諸霊を相手とするものであり(エフェソ6:12)、自分自身との戦い、古い自分との戦いと言うべきものです。私たちは、これまで、おのおの自分の考えに従い、自分のよしとする生き方をしてきたでしょう。けれども、もはやその古い生き方から離れるべきである、ということです。ペトロは、かつてあなたがたは異邦人が好むようなことをしていたと言い、その代表的なものとして、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、偶像礼拝を挙げています。人は欲望に支配されるとき、理性を失い、獣のようになってしまいます。これら自分自身を見失わせ、人を獣のようにするものから遠ざかるよう、ペトロは勧めています。

 さて、ペトロが「あなたがたも同じ心構えで武装しなさい」と言う、「同じ心構えで」とは、主イエスと「同じ考え方・同じ道筋で」ということです。主イエスは、ご自分のために苦しむのではなく、正しくない者のために、私たちのために苦しんでくださいました。その同じ心構えでとは、自分のためではなく、他者のために苦しむということです。

 ペトロは、私たち信仰者の苦しみは、まだ信仰を持っていない人たちのための苦しみであると言います。私たち信仰者は、もちろん自分自身のために苦しむでしょう。自分の罪のゆえに悲しみ、嘆きます。また、苦しみを通して成長させられる、練り清められるということもあるでしょう。しかし、私たちの苦しみは他者のためでもある。もちろん、私たちに主イエスと同じことができるわけではありません。けれども、信仰者とされて、私たちは隣人の悲しみ、痛みを察して共感することへと思いを向けるよう、導かれています。そうして祈りつつ、共に悲しみ、共に苦しむのです。戦争や災害に際しても、その苦しみの中にある方の痛みを思って、苦しみの内に執り成して祈ります。何よりも人間とは罪ゆえに生きることそのものに労苦があり、悲しみがある存在です。その生きる苦しみ、生きる困難を知る者とされて、信仰者は生きる苦しみそのものを苦しむのです。そして、生けるまことの神を知ることに救いがありますから、多くの方がまことの神を知り、キリストの福音を知ることができるよう、執り成して祈ります。そして、それはキリストが十字架を通して罪と死に打ち勝ち、復活されたように、勝利へと続く道にほかならない。ペトロはそう言って私たち信仰者を力づけ、励ますのです。

 ペトロは、キリスト者は祭司の民とされたのだと語りました(2:9)。祭司の大切な役割は、他者のために執り成して、犠牲のいけにえをささげることです。ですから、キリスト者また教会が祭司の民とされたとは、主なる神と他者に仕えて歩む者とされたということにほかなりません。人間の欲望と戦いも、ただ自分が練り清められるためだけではなく、まだ神を知らない人たちが神を知ることができるために求められていることなのです。主イエスを知り、目に見えない永遠の希望に生きるようにされた者として、神の御心に聞き従う生活に努めて参りましょう。