2025年1月5日礼拝
ペトロの手紙一 5章1~4節

さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。


 「長老たちに勧めます」とあり、この箇所は長老たちへの勧めです。今日の教会役員に対する勧めと言えるでしょう。5節には「若い人たち、長老に従いなさい」とあり、こちらは役員以外の方々への勧めです。どちらにしても、教会の頭なる主イエス・キリストに聞き従うことが求められています。長老は神に仕えることとして神の羊の群れに仕えます。若い人は、長老に従うことを通して神と人に仕えます。長老も若い人も皆、神と人に仕える者として自らを位置づけることが大切です。私たちは皆仕え人である。この御言葉を通して、大牧者である主イエス・キリストに聞き従い、仕えることを大切に学び取りたいのです。

 「神の羊の群れを牧しなさい」と語るペトロは、主イエスから「わたしの羊の世話をしなさい」と命じられたことを思い起こしていたでしょう(ヨハネ福音書21章15節以下)。主イエスは三度重ねて「わたしを愛しているか」と問いかけ、ペトロは三度重ねて「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えました。それは、ペトロが三度、主イエスを否んだことを上書きして洗い清めるような出来事だったでしょう。ペトロは大きな罪に陥りましたが、御子イエス・キリストの血をもって贖い出され、再び主イエスの羊の世話をすることへと召し出されました。羊の群れを牧するとは、その贖い主キリストを愛して、キリストに仕えることです。キリストの愛をもってキリストの羊の群れに仕えることにほかならない。ペトロは、そのことを深く心に刻んでいたでしょう。

 長老たちには、そのようにキリストを愛して、キリストの羊の群れを養い育むことが求められます。「何々ではなく、何々で」という文章が三回繰り返されて、群れを養い育む具体的な心得が三つ示されています。

 第一には、「強制されてではなく、神に従って、自ら進んで」です。不承不承ではなく、神の召しに応えて自発的に、そうせずにはいられないという思いから出発します。その働きには労苦がありますが、喜びにほかなりません。喜びのゆえに、自ら進んで取り組むことができます。

 第二は、「卑しい利得のためにではなく、献身的に」です。ここでは、どん欲と恥ずべき利益を求めることが否定されています。エゼキエル書34章に示される、「自分自身を養うイスラエルの牧者たち」の姿が戒められています。主は、「わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする」(同34:11)と約束されました。その約束の大牧者として救い主が遣わされ、十字架の血をもって私たちを贖い出してくださいました。「献身的に」とは、そのキリストの愛に心燃やされて群れに仕えることです。キリストが群れを愛するように、私たちも群れを愛して仕えます。

 第三は、「権威を振り回すのではなく、群れの模範として」です。長老もキリストに牧していただくことが必要な罪人にほかなりません。そのことをわきまえて、権威を振り回すことなく、群れの模範として歩みます。模範とはキリストの御声を聞くこと、神の御言葉に耳を傾けることです。群れを導く者は御言葉に聞くことにおいて模範である、ただそのときにのみ、共に御言葉を聞く者として、群れを導くことができます。

 主イエスは、弟子たちの足を洗って、しもべとして生きることを私たちに教え、私たちを罪から洗い清めるために、十字架の低さまで耐え忍ばれました。その愛と恵みによって、私たち罪人が仕える者として造り変えられ、生かされます。信仰者はこうして皆、仕え人であり、教会の牧師、長老、執事も仕え人です。そして、真実には、そこに信仰者としてだけでなく人間としての本来の生き方があり、また喜びもあります。その仕える人生を走り抜いて、私たちは終わりの日に、しぼむことも朽ちることもない、とこしえの栄冠を受ける幸いにあずかる者とされるのです。