2024年9月8日礼拝
ペトロの手紙一 3章1~7節
同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。……その昔、神に望みを託した聖なる婦人たちも、このように装って自分の夫に従いました。たとえばサラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました。あなたがたも、善を行い、また何事も恐れないなら、サラの娘となるのです。同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません。(1,2,5~7節)
「同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい」と言われます。「召し使いたち」と「同じように」です。当時、奴隷と同じように、妻もまた夫の所有物とみなされて、夫に逆らいようがなく、それは普遍的で変えることができないものでした。その中で、「同じように」キリストが残された模範にならって従います。主イエスが自らの意志で十字架を引き受けられたように、決していやいやではなく、自由に服従するのです。たとえ御言葉を信じない夫であっても、神の御心がそこにある、神の望みがそこにあると信じて、喜んで従います。キリスト者とされて、神以外のあらゆるものから自由です。しかしまた、神を畏れ神に仕えることとして、誰にでも服します。服する自由のゆえに、夫に従い夫に仕えます。
しかし、妻たちは逆らいようがなく、従うほかない状況に置かれていたのです。多くの場合、仕方なくであっても従っていたでしょう。そのような中で、なぜ「従いなさい」と言われるのか。主イエス・キリストを見つめるためです。逆らうことなどできずに従っていただけかもしれません。しかしそこで真実には、キリストに従い、キリストと一つにされることへと導かれているのです。神がお望みだとわきまえて耐え忍ぶなら、それは神の御心に適うことなのです。そう言われて、これは当時の妻たちにとって大きな慰めであり、励ましだったのではないでしょうか。
そして、夫に従うとは、ただそれだけで終わるものではありません。夫が主イエス・キリストを信じる信仰に導かれ、救いの恵みに至ることが目当てなのです。「信仰に導かれるようになる」とは、直訳では、神のものとなる、神が勝ち取ってくださる、という言葉です。主なる神が夫を勝ち取って、神ご自身のものとしてくださいます。そこに希望を置いて歩むことができます。また、「サラの娘」と呼ばれるようになると言われます。信仰の父と呼ばれるアブラハムの妻サラであり、「サラの娘となる」とは、妻たちに対する、最大級の賛辞だと言えるでしょう。
7節、夫に対しても「同じように」と言われます。夫も、もちろん神のしもべであり、キリストにならうのであり、仕える者として歩むのです。夫と妻は、神の御前に等しく対等な存在として、互いに仕えて歩みます。
その上で、生活を共にすること、尊敬することが命じられています。当時も今も、仕事などを理由にして夫が家を不在にすることがあるのです。たとえ家にいても不在とまるで変わりがない、そういうことも起こります。そうであってはなりません。また、当時は女性が十分な教育を受けることができたわけではなく、社会的な立場を得て働くことができたわけでもありません。そのため、多くの場合、妻は学がなく、ものを知らず、お金があるわけでもありません。そのため、妻に限らず女性一般が男性と対等に見られず、低く扱われ、家庭でも夫は妻に対してしばしば尊大で傲慢でした。その態度を改めることが求められます。学があるから、ものを知っているから、尊ぶ、というのではありません。神のかたちに造られた尊い存在として、存在そのものを尊ぶ。神によって造られて、共に生かされていることを喜び、尊ぶのです。
今日、社会的な状況が大きく変わりました。もちろん変わっていない面もあり、女性の社会進出にともなって逆転するような事態も起こっているでしょう。しかしいずれにせよ、互いに尊び仕えることは同じです。
聖書は、私たちが一人で孤独に命の恵みを受け継ぐとは考えていません。パートナーと共に受け継ぐのであり、また、教会の交わりの中で共に受け継ぐのです。私たちは自己完結することはできない存在です。教会の交わりが、互いを尊び、互いに仕え合うことによって、命の恵みを共に受け継ぐために用いられるよう、心から祈り願っています。