2025年1月12日礼拝
ペトロの手紙一 5章5~7節
同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。……だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。
「同じように、若い人たち、長老に従いなさい」とあります。聖書において、従うとはただ権威に服従することではなく、倣うことを意味します。主イエスが弟子たちに「わたしに従いなさい」とおっしゃったとき、ただご自身の権威に従えばよいと命じたのではなく、ご自身に倣うことをこそお求めになったのです。御父を神として神の言葉に聞き、御父の御心を求め、祈りをささげて歩む、そのご自身に倣うことをこそお求めになりました。長老が群れの模範となるのも、群れの模範として主イエスを仰ぎ、主イエスに倣うのです。それゆえ、「同じように」です。長老も若い人も共に主イエスを仰ぎ、共に主イエスに導かれます。そこに、「長老に従いなさい」という言葉の目指すところがあります。
従うとは倣うことである。その点で、「皆互いに謙そんを身に着けなさい」と続くことが大切です。謙そんでないと、従うこと、倣うことができません。倣うとは学ぶことでもあり、謙そんでないと学び続けることができません。倣い、学び続けるために謙そんが必要なのです。
福音が宣べ伝えられるためには宣べ伝える人が必要です。教会がキリストをかしらとする祈りの家として地上に建てられるためには、教会を支える長老が必要です。ですから、長老が立てられます。しかし、その長老も罪人にほかなりません。欠け多き器であり、批判されるべきところが多くあるでしょう。そう、批判しようと思えばいくらでも批判できるのです。そこに謙そんが必要とされます。謙そんであってこそ倣うことができ、学ぶことができ、共に主イエスに従うことへと導かれます。
また、「皆互いに」と言われます。長老に対してだけでなく、若い人も含めて、皆互いにです。私たちが従い、倣う、それは互いに倣い合うのです。主なる神は、長老をはじめとする教会役員を通してだけでなく、兄弟姉妹の交わりを用いて私たちを養い育まれます。信仰の歩みの長い方から教えられるだけでなく、信仰をもって間もない方の姿にハッとさせられることがあります。信仰者でない方から人間の真理、人生の真実を学ぶこともあります。ですから、「皆互いに」謙そんが求められます。謙そんでなければ人生の真理を知ることはできないのです。
この謙そんは、私たちが生まれつき持ち合わせている性質ではありません。生まれながらの私たちは罪人であり、自分を高めようとしてしまいます。ですから、「身に着けなさい」です。謙そんとは自分の内側から出てくるものではなく、衣服を着るように身に着けるものである。ペトロは、主イエスのお姿を思い起こしていたでしょう。主イエスは、奴隷がするように手ぬぐいを腰にまとって弟子たちの足を洗い、奴隷となるまでに謙そんに私たちに仕えてくださいました(ヨハネ13章)。ペトロにとって、謙そんは、まさに手ぬぐいを腰にまとうように、身に着けるものだったのでしょう。謙そんは、私たちのために命をささげてくださった主イエス・キリストの恵みを思い起こすことから始まります。
「神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます」。キリストにおいて示された神の恵みの前にひざまずき、へりくだります。そのとき私たちは、与えられている人間関係を神の光のもとで見つめて、主にあって赦されている者として互いを受け入れることへと導かれます。主の御前にへりくだって互いを受け入れ、互いに仕える者として生きるのです。また、あらゆる思い煩いを神にお任せしなさいと言われます。主なる神が私たちのことをもっともよく配慮してくださるからです。主イエスに倣って謙そんを身に着けて生きる者に、天の父なる神が豊かな恵みをたまわらないはずがありません。謙そんを身に着けて、神の恵みに生かされる歩みを重ねて参りましょう。