2024年8月25日礼拝
ペトロの手紙一 2章11~17節

愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。


 ペトロの手紙一は、ここからが後半で、実践的で倫理的な教えが取り上げられます。今日の箇所には、その土台となる考え方が示されています。

 12節に「立派」という言葉が出てきます。秩序にかない、その物事にふさわしいあり方で筋が通っているという意味で、「美しい」と翻訳されることもあります。信仰者として筋の通った生き方をするということです。その筋の通った生き方の原理が「いわば旅人であり、仮住まいの身」だということ、すなわち、神によって取り分かたれて、天の御国を故郷として生きる民とされていることです。私たちは、ただ地上の国家の市民としてではなく、天上の神の国の市民として生きるのです。

 具体的に、一つには、主イエス・キリストの父なる神こそがわたしの主、また王であると言い表して歩みます。すなわち、神を礼拝することであり、神を第一として生きることです。そして、それは肉の欲を遠ざけることとに表れます。神を第一として生きるとき、肉の欲を第一とすることから解き放たれて、肉の欲を遠ざけて生きることへと導かれるのです。

 この、肉の欲を遠ざけることは、信仰を持たない方々からも理解され、また値高い、尊いと思っていただけることです。ここには人間に普遍的に求められている倫理的な姿があるからです。初代教会の人びとは、当時一般的だった多神教的な生活を破壊する無神論者だとして「悪人呼ばわり」されました。しかし、その中でも、肉の欲を遠ざけることは、筋が通った美しいこととして理解されました。そうして、歴史的に、異教徒の中からまことの神をあがめる方々が起こされてきたのです。ここには、まことの神を信じる信仰告白としての生活があります。

 さて、天上の神の国の市民として生きるとは、決して地上の営みから離れることではありません。むしろ地上の営みの中で責任を果たして生きることです。ですから、もう一つとして、「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい」と命じられます。地上の制度は人間の立てたものです。しかし、すべての権威は本来、神に由来します(ローマ13:1)。ですから、私たちは神の権威に服すこととして立てられた制度に従います。それは社会の秩序と私たちの幸福のためにも必要なことなのです。

 しかし、人間は罪人であり、過ちや失敗があり、権威者が自らの利益を求めて腐敗することもあります。いったいどうして従えようかとも思われます。大切なことは、16節の「自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手立てとせず、神のしもべとして行動しなさい」です。宗教改革者ルターは言いました。「キリスト教的人間はすべての者の上に立つ自由な君主であって、だれにも服しない。キリスト教的人間はすべてのものに仕えるしもべであって、だれにでも服する」(『キリスト者の自由』)。まことの王である生ける神を知って、キリスト者は地上のあらゆる権威から自由です。しかしまた、神のしもべとして生きるゆえに、キリスト者はすべての者にしもべとして仕える自由に生きるのです。この服さない自由と仕える自由という、二つの自由が大切です。

 13節に「主のために」とあります。一方で、私たちは主に従うこととして地上の権威、地上の制度に従います。「仕える自由」に生きるのです。他方で、それは主が喜ばれることではないと思うならば、立ち上がって抵抗したり、その場を離れることができます。「服さない自由」を明らかにするということです。その判断ができるよう、信仰を養い、心の良心を磨きましょう。そして、「すべての人を敬い……」とあるように、どのようなときも互いへの敬意を忘れることがないようにしましょう。敵意や恨みに捕らえられることなく、心が守られてこそ、地上を生きるキリスト者として、筋の通った美しい姿で歩むことができるのです。