2024年6月2日礼拝
ペトロの手紙一 1章1, 2節(2回目)

イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。


 使徒ペトロは、「離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ」と宛先を書き記しました。「選ばれた人たち」「仮住まいをしている人たち」「離散している人たち」と、三つの言葉が重ねられています。「離散している人たち」は、バビロン捕囚から始まって、世界各地に散らされているユダヤ人を指します。ペンテコステに起こったことは、エルサレムに来ていたディアスポラのユダヤ人が主イエス・キリストを知ってキリスト者に変えられるということでした。そして彼らは故郷に帰り、福音を宣べ伝えたでしょう。そうして多くの異邦人が信仰者に加えられました。ですから、このときの教会は離散のユダヤ人だけではありません。しかし、離散とは仮住まいということでもあります。古くからの離散のユダヤ人でないとしても、信仰者は皆、「仮住まい」にほかならない。ペトロは、信仰者は「いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから」(2:11)と言います。本当の住みか、永遠の住みかを目指して旅をしている存在だということです。使徒パウロも、「しかし、わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ3:20)と言いました。私たち信仰者は天国を目指す旅人とされている。ここに私たち信仰者の自己理解があります。

 私たち信仰者が天国を目指す旅人である、その根拠が「選ばれている」ということです。「あなたがたは、父である神があらかじめ立てられたご計画に基づいて……選ばれたのです」とあり、「父である神」が私たちを選んでくださいました。ぜひ心に留めていただきたいことは、神の選びのゆえに、私たちの根拠は神にある、私たちの土台は天にあるということです。ピラミッドを天地逆にして思い浮かべてください。通常、ピラミッドは下の大きい底の面が土台で、上に行くほど小さくなります。それをひっくり返して、逆さピラミッドを思い浮かべるのです。天上に大きな底の面があり、それが土台である。そのように、私たち信仰者、またその群れである教会の土台は天にある。私たちの目に映っている地上の教会は、その先端の一番下の部分だけみたいなものなのです。

 地上の教会はたいへん小さく、何の力もないように思えます。しかし、真実には天に土台がある。地上においては散らされ、仮住まいで、根無し草に思えるかもしれません。けれども、真実には神が選んでおられる。そこに土台があり、根っこがある。土台があるとは、目指すべきところ、人生の目当てがあるということです。私たちは、時至って天の神共にいますとこしえの幸いに入れられます。その希望を抱いて生きるよう、ペトロは迫害を耐え忍んで歩む小アジアの信仰者を励まします。

 そして、この2節では、父なる神、聖霊、主イエス・キリストと語られて、信仰者が選び出され、聖なる者とされ、キリストに従う者とされる、それが三位一体の神の御業であると言われます。神は、信仰者を選び出し、主イエス・キリストの恵みによって救い出し、きよめるために、ご自身のすべてを働かせてくださいます。三つであるお方すべてが一つとなり、力を尽くしてくださいます。私たちは、神に選ばれて、この神の大きな御業によって生かされているのです。何と幸いなことでしょう。

 ペトロの手紙は、この神の愛と恵みの豊かさを告げて、「恵みと平和があなたがたにますます豊かに与えられるように」と祝福します。神の恵みと平和が豊かに与えられる。これは、三位一体の神ご自身が余すところなく身を乗り出すようにして私たちのために働いておられるから、そうに決まっているのです。確信をもって、「恵みと平和が豊かである」、そう告げることができる。このような生ける神を持つ人は、何と幸いなことでしょう。私たち信仰者は、この生けるまことの神の愛と恵みに支えられて、神と人を愛し、神と人に仕えて生きるのです。