2024年9月29日礼拝
ペトロの手紙一 3章13~17節
もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。
教会とキリスト者は、初代教会の始まりからすでに苦難の中に置かれていました。使徒言行録3章にある通り、足の不自由な男をいやして立ち上がらせて、ペトロとヨハネが捕らえられました。ペトロは、まさに迫害の渦中に置かれて、苦しみを味わってきたのです。そのペトロが言います。「だれがあなたがたに害を加えるでしょう」。だれも害を加えることはできないという意味の、反意の疑問文です。たとえ人の目には害を加えられたと見えたとしても、真実にキリスト者に危害を加えることができる者はだれもいないのです。復活のキリストがキリスト者と共におられます。それゆえ、真実にはだれもキリスト者に害を加えることはできない。それがペトロの確信です。ですから、人びとを恐れて心を乱すことなく、キリストを主とあがめることに固く立ち続けます。こうして、ペトロは、苦しみを耐え忍んで信仰を固くすることへと私たちを励ましています。
使徒言行録には不思議なことが書き留められています。人の目には、キリスト者は害を加えられました。そのため、「だれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった」。他方で、「しかし、民衆は彼らを称賛していた。そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった」(使徒5:13,14)。まことの神を畏れ敬い、真理を追い求めて生きようとする姿、互いを尊び、へりくだって、仕え合い、与える幸いに生きようとする態度に心惹かれる人が多かったのでしょう。たいへん不思議なことですが、これが神の真理を与えられるということなのです。これが神に召されて、神の御業に生きるということなのです。今、皆さんも、神に召され、神の真理を知る者とされて、集められています。皆さん自身が神の召しを証しする存在なのだと申し上げることができるでしょう。
ペトロは、あなたがたの抱いている希望を弁明しなさい、いつでも説明できるよう、用意していなさいと言います。穏やかに、敬意をもって、正しい良心で弁明するよう努めるのです。主イエスが、「何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない」とおっしゃったことを思い起こします(ルカ12:11,12)。「言い訳をしようとするな」とは、私たちが決して悪いことをしているわけではないからです。神を畏れ敬って生きている。ただそれだけなのです。ですから、自信を持ってよい。たとえ捕らえられることがあっても、自分の信仰をきちんと言い表せばよい。自分が何を信じて、どんな価値観で生きているのかを言い表せばよい。聖霊がその知恵と勇気を与えてくださいますから、聖霊に信頼して、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で説明すればよい。
「あなたがたの抱いている希望について」です。内容的には、どなたを信じているのか、どんな生き方をしているのか、信仰について語ります。けれども、それは希望について語ることにほかならない。それが大切です。主イエス・キリストの神が共にいてくださって、私たちはたとえ敗れてしまうかのように見えても、しかし勝利があります。どれほど執り成して祈り、平和を願っていても、もう破れてしまったのではないかと思われて、涙を流すこともあるでしょう。けれども信仰者は、たとえ倒されたとしても、立ち上がることができます。主なる神が、立ち上がる力を繰り返し与えてくださいます。暗闇の中にも光が与えられます。そして、私たちの労苦は決して無駄になることがない。その約束が与えられています。その希望を証しするのだとペトロは言います。希望です。
主イエス・キリストを信じる生き方には労苦があります。けれども、それは、人として真実に生きるということであり、希望をもって、志高く生きるということにほかなりません。主イエス・キリストに結ばれて、心に希望を抱いて生きる人生を、励まし合いながら共に歩んで参りましょう。