2024年7月28日礼拝
ペトロの手紙一 2章1~3節

だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。


 「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました」。ギリシア語では「クリストスはクレーストス」という文章で、「クリストス」がキリスト、「クレーストス」が「恵み深い」です。「クレーストス」は単純には「よい」という意味で、「味わう」と言う場合には「おいしい、味わい深い」という意味にもなります。ですから、「キリストは味わい深い」です。私たちが信仰者として養われ、成長するとは、実に、主イエス・キリストを味わうことによるのです。主が恵み深い方だと味わい、「この主のもとに来なさい」(4節)と招かれます。キリストの恵みを味わい知ることが、私たちの信仰の歩みを支えるのだと言えるでしょう。

 そのために、一つには、捨て去るべきことが挙げられています。悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口の五つです。これらには、自分の欲望を満たすという以上に、隣人との人間関係を壊してしまうものだということが共通しています。「あなたがたは、真理を受け入れて、魂をきよめ、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい」(1:22)とありました。神の御言葉によって新たに生まれるとは、神の真理、神を知る知識をいただいて、神と人を愛することへと造り変えられることへと至ります。ですから、これら五つに限らず、隣人との関係を壊してしまう、悪い心の思いを皆捨て去ることが大切です。互いに愛し合い、仕えあうことにおいて成長できるよう、祈り求めましょう。

 そしてもう一つ、「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」と命じられます。これは、具体的には、神の御言葉を糧として生きるということです。神の御言葉が私たちの内に働いて、私たちを造り替え、成長させるからです。

 「生まれたばかりの乳飲み子のように」とは、やがて乳離れして「霊の乳」を必要としない時期が来るということではありません。コリント書などでは、信仰の初心者に与えられるものが「乳」と呼ばれて、いつまでも乳飲み子でいないようにと言われます。けれども、この箇所では、私たちは霊の乳が必要な乳飲み子であり続けると考えられていて、事実、その通りなのです。信仰者は、いつまでも生まれたばかりの乳飲み子のように混じりけのない霊の乳を慕い求めるべきです。それは、ただその霊の乳によってこそ、神の恵みを味わい知ることができるからです。

 「混じりけのない」とは、偽りや混ぜもののない、水で薄めたりしていない、ということです。もちろん、神の御言葉はそのものは真理であり、偽りも混ぜものもありません。しかし、私たちはしばしば自分の耳に心地よい言葉を求めがちです。罪を指摘しあらわにする言葉を聞くと、心を突き刺されるような思いがして、自分の気持ちの中で神の御言葉を水で薄めてしまうことがあるのです。決してそうであってはならないということです。神の御前に私たちはまったくの罪人にほかなりません。だからこそ、御子イエス・キリストが救い主として与えられ、十字架につけられました。私たちの贖いはただ主イエス・キリストにある。そして、だからこそ「クリストスはクレーストス」、主は恵み深いお方なのです。

 この恵みの真理を水で薄めることなく、混じりけのない霊の乳を慕い求めます。福音を告げる御言葉を糧として、キリストの十字架と復活の御業の恵みを味わい知る、そこに私たちの信仰の歩みがあります。主の日の礼拝は、その大切な要となる営みです。しかし、それは七日に一度に過ぎず、マラソンの給水ポイントのようなものだと言えるでしょう。マラソンではそれでよいかもしれませんが、信仰生活は毎日の営みです。礼拝と同時に、日毎に聖書を開いて御言葉に耳を傾けましょう。御言葉を糧としてこそ、信仰の生涯を終わりまで走り抜くことができるのです。