2024年6月30日礼拝
ペトロの手紙一 1章13~16節
だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。
「だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」。「希望の手紙」と呼ばれるペトロの手紙一のもっとも簡潔な要約だと言えるでしょう。中心となる動詞は「待ち望みなさい」で、それを説明して、「心を引き締める」ことと「身を慎んでいる」ことが加えられています。
「身を慎む」とは、もともとは「酒に酔っていない、しらふである」ということで、理性と知性を保ち、緊張感をもって意識を集中している状態を指します。「節度」「節制」とも翻訳される言葉です。聖霊が私たちに働くとき、私たちをいたずらに熱狂的にさせることなく、冷静に御言葉を思い巡らして真理を悟るように導かれることを心に留めましょう。
「心を引き締める」は、口語訳聖書で「心の腰に帯を締め」と翻訳されています。古代の人びとは、大きな布をまとうようにして着ていました。だぶだぶ、ゆるゆるで、くつろいでいるにはよいでしょうが、作業をするときには不便です。そのため、仕事をするとき、出かけるときなどには腰に帯を締めました。エジプトで奴隷として生活していたイスラエルの民は、主なる神に導かれてエジプトを旅立つに際して、過ぎ越しの小羊を屠り、その血を家の柱と鴨居に塗り、羊の肉を食べることを命じられました。「それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。これが主の過ぎ越しである」(出エジプト12:11)。神の御業、しかも贖いの御業を前にして「腰帯を締め」て食事をし、旅立ちに備える。これがペトロの手紙の「心を引き締め」のイメージです。私たち新約の信仰者に求められることも、このような、神の御業を前にして備えて待つことであり、神の御業を待ち望む緊張感なのです。
主イエスの「目を覚ましているしもべ」のたとえ(ルカ12:35-40)を思い起こします。腰に帯を締めて、帰って来る主人を待つのです。再臨の主は、腰に帯を締め、用意を整えて待っていることを、私たちに求めておられます。そうして主人が帰って来ると、主人すなわち主イエスご自身が腰に帯を締めて給仕してくださる。しもべに過ぎない私たちを招き入れて食卓に着かせるとおっしゃいます。何と光栄なことでしょう。
私たちの信仰の現実は、再臨を待ち望むどころか、地上のことに心を奪われて、右往左往しているようなところかもしれません。私たちは、再臨がまだ遠い先のことのような気がして、待ち望みつつ生きる信仰を見失いやすいのです。自らを振り返り、悔い改めをもって、主イエス・キリストを見つめましょう。心を引き締め身を慎むとは、言い換えると、目を覚まして主イエス・キリストを見つめていることです。十字架につけられ、死んで、けれども復活し、高く上げられた主イエス・キリスト。今も生きて、全地を統べ治め、罪と戦い、勝利して、この世界を完成へと至らしめてくださるお方。その主イエス・キリストを見つめてこそ、キリストに忠実に仕えて、地上の生涯を忍耐強く歩み抜くことができます。
「ひたすら待ち望みなさい」と命じられます。「ひたすら」とは「完全に、全面的に」ということです。半身ではなく、全身です。半身では、実のところ、何も信じていないのと同じで、神に期待していないことになりかねません。神にすべてがかかっているのです。ですから、勝利のキリストを見つめて一途に待ち望むところに信仰者の人生があります。
信仰者は、今しばらく試練に悩まねばなりませんが、神の勝利は変わることがありません。私たちは、むしろ試練を通して練りきよめられ、大きな光栄へと入れられます。ですから、神に希望をおき、心を引き締め身を慎んで、待ち望みつつ歩みましょう。再臨の主イエス・キリストを待ち望んで忠実に歩む者こそ、神によって勝利する者とされるのです。