2024年6月9日礼拝
ペトロの手紙一 1章3~5節

わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。


 「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」。「ほめたたえられますように」とは、ほめたたたえられるべきお方だということであり、神をほめたたえる賛美の言葉です。手紙の本文が賛美の言葉で始まるのは、とても大切なことだと思います。

 その賛美の理由、根拠として神の二つのくすしき御業が挙げられています。一つには、「神は豊かな憐れみにより、私たちを新たに生まれさせ」とある、新生です。もちろん、肉体的に生まれなおすことではなく、聖霊による新しい命に生まれることです。そのために、父なる神は独り子さえ惜しむことなく十字架に引き渡してくださいました。もう一つは、「あなたがたは……神の力により、信仰によって守られています」です。神が私たちの信仰を支えて、守ってくださっています。信仰者は、キリストによる新しい命をいただくだけでなく、神の力強い御手によって守られているのです。ここに私たちの過去と現在があると言えるでしょう。

 そして、将来について、「死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」「朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ」と言います。方向を示す前置詞が用いられていて、私たちが新しい命をいただいたのは、この方向に向かうためである。すなわち、生き生きとした希望に生きるためである、また、朽ちず、けがれず、しぼまない財産を受け継ぐためである。ペトロはそう言います。

 人が人として生きるためには希望が欠かせません。たとえ労苦が多くても、希望があれば忍耐強く生きることができるでしょう。希望があれば悲しみや痛みの中でも前を向くことができるでしょう。希望によって私たちの将来が開かれていくと言うことができます。そして、「生き生きとした希望」は、英語では“a living hope”で、希望そのものに命がある、希望そのものが生きている、という希望です。それは、その希望が死者の中からのイエス・キリストの復活によって与えられる希望だからです。復活から来る希望であり、私たちの肉体までも復活させられる希望です。ただ地上の命をもう一度生きるのではなく、私たちの欠けたところ、弱いところがすっかり清められ、強くされて、神と共に生きる希望です。まさに「朽ちず、けがれず、しぼまない財産」なのです。

 これは信仰者の個人的なことだけではありません。福音は信仰者個人を新しくするだけではなく、この世界全体を新しくする広がりを持ちます。主なる神がこの世界を新しくしてくださる。世界の再創造です。「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです」(ローマ8:22-24)。こうして、希望は、私たち人間だけでなく、被造物すべてが新しくされることへと広がります。希望のこの広がり、視野の広さが大切です。

 詩編の詩人が「神にのみ、わたしは希望を置いている」(詩編62:6)とうたうように、神にこそ希望があります。ですから、顔を上げて神を仰ぎ、視線を主なる神に向けることが大切です。もしただ私たちの目が地上のことに向かうだけならば、私たちの思いは地上のことにからめ取られ、私たちは地上の思い悩みで身動きがとれなくなるでしょう。そうであってはなりません。主なる神が私たちの道を開いてくださるお方です。たとえ倒れたとしても、立ち上がることへと導いてくださいます。それが、罪と死に打ち勝たれた主イエス・キリストの復活による希望です。この希望を抱いて、神と人に仕えて共に歩んで参りましょう。