2024年11月24日礼拝
ペトロの手紙一 4章17~19節
今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。
「正しい人がやっと救われるのなら、不信心な人や罪深い人はどうなるのか」と言われているとおりです。
だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。
私たちは救いを求めて信仰に入りますが、信仰者になれば苦しみや試練がなくなるわけではありません。しかし、主なる神は苦しみを苦しみとして放置することなく、苦しみを通して神の御国にふさわしく、私たちを練り清めてくださいます。キリストが苦しみを経て新しい命を勝ち取られたように、私たちも苦しみを経て栄光の御国に入れられるのです。
ペトロの手紙は、苦しみを経て栄光の御国に入れられることを言い換えて、「今こそ、神の家から裁きが始まる時です」と言っています。旧約の預言書で、神の裁きはエルサレムから、とりわけ神殿から始まると言われています。それは、「神の家」、神が御自分の名を置くと約束しておられるところを、御自分にふさわしく整えるということです。「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」(イザヤ56:7)。ところが、当時のイスラエルでは、律法が読まれず、正義と公平が失われている現実がありました。そのため、預言者は裁きを告げて、裁きは神殿から始まると言いました。その通り、バビロン捕囚が起こり、神殿は焼き払われ、都も滅ぼされました。まさに裁きは神の家から始まったのです。
ですから、神の民、信仰共同体から神の裁きが始まります。信仰者にはそれだけ責任があるということです。しかし、それは、ほかの人びとよりも余計に苦しまなければならないということではありません。信仰者であれ信仰を持たない者であれ、終わりの日にはすべて人が神の御前に立たせられ、自らの歩みを問われます。そのところで、すでに神の御心を知る者とされているゆえに、信仰者にとっては、すでに終わりの裁きが始まっているに等しいのです。神の御前に、今、いかに生きているのかが、やがて問われるのであって、私たち信仰者はすでに終わりの裁きの中を生きているからです。ですから、まさに「今こそ」です。
一つには、神の裁きの厳粛さを心に留めましょう。神の裁きに耐え得ない罪とけがれの中にあることを認めて、神の御前に立ち帰るのです。そして、「真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい」と呼びかけられています。創造主であられるまことの神に私たちの希望があるからです。創造主なる神は真実なお方であり、ご自身の約束に忠実で、変わることがありません。それゆえ、私たちを愛して、御子イエス・キリストによって私たちを贖い取ってくださいました。今や私たちは、聖霊と主イエス・キリストによって真実であられる創造主に自らをゆだねることができます。「善い行いをし続けて」とは、落ち着いた信仰生活を続けることです。神に依り頼んで、落ち着いた信仰生活に励みましょう。
もう一つ、ペトロは、「正しい人がやっと救われるのなら、不信心な人や罪深い人はどうなるのか」と言って、福音に聞き従おうとしない者たちの行く末を案じています。箴言11章31節を言い換えながら引用していて、「報いを受けるのは当然だ」を省いて、結論を開いています。そうして、信仰を持たない人びとについても真実であられる創造主にゆだねようとしたのだと言えるでしょう。主なる神の御心は、裁いて滅ぼすことではなく、神の御前に立ち帰って命を得ることにあります。神は救いの神であり、捕らわれ人を解き放ち、見えない人の目を開き、うずくまっている人を起こされるお方なのです。主なる神は、今も神を知らずに生きている人びとをも愛して、ご自身の前に招いておられます。
私たち皆がやがてその前に立たせられるお方は、こうしてすべての点で真実であられ、すべての人の創造主であられます。ですから、創造主によって造られたすべての人が神の憐れみと招きを知り、主イエス・キリストと出会う幸いを与えられるように祈りましょう。そのように忍耐強く祈る生活こそが、終わりを知って忠実に神と人に仕える生き方なのです。