2024年9月15日礼拝
ペトロの手紙一 3章8~12節
終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。(8,9節)
「召し使いたち」(2:18)、「妻たちよ」(3:1)、「夫たちよ」(3:7)と個別に呼びかけていましたが、使徒ペトロは改めて「皆心を一つに」と言って、すべての信仰者に対して呼びかけています。
「皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し……」と勧めますが、今、心を一つにできていないとか兄弟愛がないとかではありません。「心を一つに」とは、ルカ福音書のマルタとマリアの物語で、大切なことはただ一つ、主イエス・キリストの前にひざまずいて御言葉を聞くことであると教えられているように、神の国と神の義を第一とすることです。それは、主イエスを信じる者とされて、すでに与えられている恵みにほかなりません。また、自分を省みて、自分には同情や憐れみと言えるほどのものはないと思うかもしれません。けれども、信仰者とされて、苦しむ者と共に苦しみ、重荷を分かち合うことの大切さを確かに知る者とされているのです。ですから、吹けば消えるような炎かもしれませんが、確かに自分の内に信仰の炎が灯されています。それは聖霊が私たちに灯してくださったものなのです。その炎がいよいよ聖霊によって熱く燃やされ、強く確かなものとされる。ここでは、そのことが私たちによっていよいよ祈り求められ、取り組まれるべきことであることが教えられています。
しもべとして歩む信仰者のもっとも大切な心構えは9節です。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」。従うこと、しもべとして生きる、仕える者として生きることには、労苦がともないます。忍耐が強いられます。しかし、その労苦に捕らえられてはなりません。虐げられ、苦しめられることがあり、悪を受けること、侮辱にさらされることがあるでしょう。しかし、悪や侮辱に捕らえられ、支配されてはなりません。地上においては、見るところ、悪が栄えるように思えますが、けれども、真実には主なる神が支配し統べ治めておられます。そして主なる神は、悪に対して正しく報いられるお方です。その主なる神を信頼するゆえに信仰者は自ら報いることを求めません。
「かえって祝福を祈りなさい」とあり、祝福を祈り求めることによって悪に報います。使徒パウロも言いました。「誰に対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ12:17,21)。真実には、善こそが悪に打ち勝ち、勝利します。主イエスが十字架につけられ、悪が勝利するかと思われましたが、その十字架によって罪と死の力が打ち破られたのです。善をもって悪に打ち勝つ。それがキリストにおいて示された神の真理です。その神に信頼して、敵対する者を赦し、かえって祝福を祈る。私たちは、その祝福を受け継ぎ、語り継ぐために召されているのであり、それが苦しみを耐え忍ぶ信仰者に与えられた大きな希望なのです。
10~12節は詩編34編からの引用です。「主の目」「主の耳」「主の顔」と出てきて、神の御前に生きる信仰の姿が示されています。主なる神は、ご自身の目を私たちに注ぎ、私たちの声に耳を傾けてくださるお方です。ご自身の顔を悪事を働く者に向けて裁きを明らかにし、また、御前に招いて立ち帰らせるお方です。主の御顔は私たちを照らす恵みの顔でもあるのです(民数記6:5)。主なる神は、私たちのことをご存じで、守り導き、私たちを苦しみから助け出してくださいます。このお方に背負われて歩むことができる、それが信仰者とされている幸いです。
この主なる神の祝福は、私たちが自分の内に抱え込むようにするのではなく、分かち合ってこそ豊かになるものなのです。祝福を受け継ぎ、分かち合う者として、共に主に仕えて歩んで参りましょう。