2024年8月18日礼拝
ペトロの手紙一 2章9, 10節

しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。あなたがたは、「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」のです。


 「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」。主イエス・キリストを隅の親石として建て上げられた霊的な家、教会について、出エジプト記19章3~5節に基づく四つの表現で描き出しています。「選ばれた民」「聖なる国民」「神のものとなった民」は、いずれも神ご自身がご自分のものとして取り分けた民ということで、内容的には同じです。旧約に基づいて新約の教会を「選ばれた民」「聖なる国民」「神のものとなった民」と呼び、私たちをご自分のものとして取り分ける神の愛と憐れみがとても印象的です。

 「王の系統を引く祭司」も、出エジプト記19章に「祭司の王国」とあり、新約の教会も旧約の民と同じく祭司の王国とされているということです。しかも王の系統を引く祭司である。王とは主イエス・キリストです。主イエス・キリストのいわば子孫として、祭司とされているのです。

 主イエスご自身は罪のないお方ですが、私たち多くの罪人を罪から解き放ち、神の御前に立ち帰らせるために、ご自身をいけにえとしてささげてくださいました。主イエス・キリストこそ、罪人のために完全な献げ物をささげてくださった、唯一で永遠の大祭司であられます。ですから、私たちが祭司であるとは、私たちの業や努力が罪の赦しをもたらすということではありません。そうではなく、キリストの恵みに感謝し神をほめたたえて自らをささげる、そのことが神と人に仕えることとして用いられる、祭司の働きとして用いられるということです。神ご自身が恵みの内に私たちを導き、神と人に仕える者として私たちを用いてくださいます。

 「王の系統を引く祭司」とあり、王と祭司が一つに結び合わせられています。主イエス・キリストにおいて王と祭司は一つです。主イエスは、へりくだること、仕えることによって統べ治める王であられるからです。イスラエルのもっとも代表的な王であるダビデが羊飼いであったことを思い起こしましょう。羊飼いは羊の群れを治めて導きますが、決して支配し権力を振るうということではありません。羊飼いは羊を危険から守り、水場、青草へと羊を導きます。そこにあるのは仕える者のイメージです。支配する者としてではなく、仕える者として治めます。

 「それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです」。こちらでは福音を宣べ伝える預言者の務めが示されています。主イエスご自身、町々、村々を行き巡って福音を宣べ伝えられました。そして、そのお働きの中心が御父に執り成して祈ることにあったことを思い起こしましょう。群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれ、病気や患いをいやし、御国の福音を宣べ伝えられたのです。主イエスにおいては、預言者であるということも祭司であること、仕えることと一つの働きでした。

 この箇所は、キリスト者の働きについて豊かな示唆を与えてくれます。日毎の歩みの中で、いかに神と人に仕えるしもべの姿勢を保つことができるのか。福音を宣べ伝えると言っても、自分の都合で宣べ伝えていないか、相手を打ち負かすような伝え方でかえってつまずかせていないか、振り返って省みさせられます。神に仕えるときにも傲慢になりがちで、悔い改めるべきことがあるのです。執り成して祈り、仕えることに私たちの働きの土台があります。福音を宣べ伝える主権者は主イエス・キリストご自身で、私たちはそのしもべです。しもべとして生きるところでこそ暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を広く伝えることができます。執り成して祈ることを大切にして、神に喜ばれる霊的ないけにえを主イエス・キリストを通して献げて参りましょう。