2024年7月21日礼拝
ペトロの手紙一 1章12~25節

あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。こう言われているからです。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。


 「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」。「生きた」とは「命がある」という言葉です。「朽ちる種からではなく、朽ちない種から」ともあり、神の御言葉は生きた命ある種なのです。福音が宣べ伝えられ、神の御言葉が人の中に播かれます。蒔かれて、ただちに芽を出すのではないかもしれません。けれども、ひとたび蒔かれたならば、種には確かな命があるのであり、蒔かれたところでふさわしい時を待っています。その種は、たとえ死んだように見えても、決して死ぬことなく、忍耐強く芽を出すべき時が来るのを待っているのであり、やがて芽を出して成長します。そうして、その人の中で神の御言葉が根付いて成長し、神の御言葉に従う生き方を始める。それが人が主なる神によって新たに生まれるということです。神の御言葉によって新しく生まれさせられて、人は真実に生きるものとされます。

 22節の「真理を受け入れて」の「真理」は23節の「神の変わることのない生きた言葉」と結びついています。神の生きた言葉によって神の真理が示され、その真理によって人は新たに生まれます。その新しさは、「清い心で深く愛し合」う姿に具体的に現れます。信仰者は、神への愛、主イエスへの愛に生きるだけではなく、兄弟愛、隣人愛に生きるのです。ですから、真理を受け入れるとは、御言葉から知識を学ぶだけで終わりません。互いに愛し合って生きる生き方を学び、実践することへと導かれます。共同体の一員として、共同体を支えて共に生きることを大切にします。兄弟姉妹を愛して、互いに配慮し、仕え合い、支え合う生き方を追い求めます。そこに信仰者の「成長」また「成熟」があります。

 「しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」。ペトロは、イザヤ書の「わたしたちの神の言葉は……」(40:8)を「主の言葉は」と言い換えて引用しています。主の言葉は神の言葉であり、神の言葉は主の言葉ですから、同じといえば同じです。しかし、ペトロは「傷やけがれのない小羊であるキリストの尊い血に」よって贖い出され、「死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」られたのです。ペトロにとって十字架と復活のキリストこそ主であられます。死に打ち勝つキリストの命のゆえにこそ、神の言葉は朽ちることがない。ペトロは、キリストの復活の命、よみがえりの命のゆえにこそ、神の言葉は朽ちることのない、命ある種なのだと考えていたでしょう。

 その真理を受け入れ、魂をきよめられ、真実の兄弟愛を抱く者とされて、ペトロは、清い心で深く愛し合いなさいと勧めます。互いを命に生かすということです。ペトロは、主イエスを三度否定した自分に、主イエスが「わたしの羊を飼いなさい」と三度励ましてくださって、改めて主に仕えるしもべとされたことを心に刻んでいたでしょう。主イエスの言葉には、罪を赦し傷をいやして立ち上がらせる命があります。その命に招き入れられて、今度は自分の言葉と振る舞いが人を慰め、いやし、力づけるものとなることを祈り願ったでしょう。今、私たちも、そのように清い心で深く愛し合い、互いを命に生かすことへと招かれているのです。

 主なる神は、私たちに御言葉の種を蒔き、聖霊を注いで、すでにご自身の御業を始めてくださいました。自らの愛の小ささを嘆き、何をすればよいのか戸惑うことがあるでしょう。しかし、愛すること仕えることへと心動かされることそのものが御言葉の命の証しであり、聖霊のお働きの現れです。私たちの戸惑い、心苦しさは、神の御言葉によって新しくされていることのしるしです。復活の主の言葉に励まされて、互いに愛し合い、仕え合うことによって、信仰をあらわして参りましょう。