2025年1月26日礼拝
ペトロの手紙一 5章12~14節

わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました。この恵みにしっかり踏みとどまりなさい。共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています。愛の口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストと結ばれているあなたがた一同に、平和があるように。


 ペトロの手紙一の結びに際して、シルワノとマルコの名前が挙げられています。シルワノは、使徒言行録15章22節に登場するシラスです。ペトロとシルワノはもともとエルサレムで共に主に仕えていました。その二人がローマで再会して、一緒に伝道していたようです。マルコは、マルコ福音書の執筆者マルコです。マルコはパウロの協力者でしたが、ここではペトロと共に伝道していたようです。私たちキリスト者の信仰生活と働きは、このようなキリスト者の交わりによって支えられています。ペトロやパウロの働きも、神の導きと祝福はもちろん、シルワノやマルコをはじめとする多くのキリスト者がいて、その支えがあってこそ成し遂げられたものです。主にある交わりは、私たち信仰者の信仰の戦いを支え、また伝道のためにも不可欠なものだと言うことができます。

 13節の「バビロン」はローマのことです。ローマは、人間的には魅力的な都市だったでしょう、けれども、誘惑と不品行に満ち、キリスト者を迫害する都市であり、かつてのバビロンのような場所なのです。けれども、ペトロたちは、そのローマの人びとが主なる神を知り、福音によって造り変えられることを願って、伝道に励みました。主は、幻の中でパウロに告げました。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。……この町には、わたしの民が大勢いるからだ」(使徒18:9,10)。たとえ迫害のような困難があっても、私たちは互いに助け合い、支え合いながら、粘り強く福音を宣べ伝えます。

 14節の「愛の口づけ」は、主にある兄弟姉妹の愛のしるしで、その愛とはキリストの愛です。しかし、口づけで思い起こすのは、イスカリオテのユダが主イエスを捕らえる合図に用いた出来事です(マタイ26:48)。ユダは、主イエスを愛していながら主イエスが分からなくなり、その苦しみの中で主イエスを裏切りました。主イエスを愛するよりも自分自身を愛したということなのですが、ユダだけでなく私たちは皆、結局のところ、自分しか愛していない、愛のない者なのです。主イエスは、その私たちの罪を背負って十字架につけられました。愛することに破れてしまう、私たちの呪いを引き受けて、死んでくださいました。そうして、罪と死の力を打ち破り、復活して、それは私たちの愛を新しくしてくださったということです。本当に神を愛し、互いを愛して生きることができるように、愛に生きる道を切り開いてくださった。それが主イエス・キリストです。

 ですから、主イエスを裏切る合図になった口づけですが、新しくされたのです。ペトロは、キリストの愛に基づく愛の口づけによって、「互いに挨拶を交わしなさい」、すなわち、互いに愛し合いなさいと言います。こうして、キリスト者の交わりは、主イエス・キリストの十字架の愛に固く立つものです。ペトロは、この十字架のキリストこそが神のまことの恵みであることを証しして、この恵みにしっかり踏みとどまりなさいと勧めます。踏み留まるとは「立て」ということです。ほかのところではなく、この神の恵み、キリストの十字架の愛に「固く立て」と勧めます。

 この愛は、自分たちだけを愛するのではない、敵をも愛する愛です。主イエス・キリストは、ご自身を裏切る者のために死なれました。ですから、キリストの愛は、兄弟姉妹を互いに愛し合う愛であり、さらに広く外へと向かう愛です。そのような神の愛、キリストの十字架の恵みに固く立つように。この手紙は、そう勧めて、締めくくられます。そこにこそ、まことの平和、神による赦しと和解に基づく平和があるからです。この神の恵みに固く立ち、互いに愛し合い、祈り合う交わりを建て上げ、愛を外へと表して、福音を広くあまねく宣べ伝えて参りましょう。キリストと結ばれているあなたがた一同に、平和があるように。アーメン。