2024年7月14日礼拝
ペトロの手紙一 1章17~21節

また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。


 「その方を畏れて生活すべきです」とあり、神を畏れることが教えられています。「おそれ」とは、自分を超えた大きな存在、また未知なものに対する距離感を示す感情です。私たちは、自分では制御できない、たとえば雷や嵐に不安を感じて、恐れます。ただし、ペトロの手紙では、「恐怖」の「恐」ではなく、「畏怖」の「畏」が用いられて、神に対する距離感が言い表されています。生けるまことの神は、すべての存在を在らしめられる造り主であり、距離があり、それゆえ私たちは神を畏れます。けれども、この神は、私たちを不安に陥れる未知のお方ではありません。主なる神はイスラエルの民を愛してエジプトから導きだした神、救いの神であられます。そして、「人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった」(申命記10:17-19)とおっしゃるお方です。恵みと慈しみ、愛と憐れみに富むお方にほかなりません。このお方の御前に自らの小ささ、無力さを認めて歩む、そこに神を真実に畏れる、畏れがあります。

 ペトロの手紙は、神を畏れることを教えるに際して、「あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、『父』と呼びかけているのですから」と言って、神の御前に置かれていることをわきまえることへと私たちを導きます。私たちの生活の営みは、すべて神の御前に置かれています。私たちの愚かさも破れも神の御前にはすべてあらわです。そのお方の前で自分の人生を振り返るとき、私たちは、愚かで怠惰な人生を歩んできたと告白せざるを得ないのではないでしょうか。

 その上で、「知ってのとおり」と続きます。「あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、傷やけがれのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」。この「知ってのとおり」とは、あなたがたは知っているではないかという、呼びかけのような言葉です。あなたがたは知っているではないか。自分が、この世の知恵や力に依り頼むむなしい生活から、キリストの血によって贖い出されたものであることを。あなたがたは、神に依り頼む新しい生活へと入れられたではないか。そのために、神は私たちの父としてご自身の尊い独り子さえ惜しまず与えてくださった。御子イエス・キリストが十字架につけられ、肉を引き裂かれ、血を流される、そのことをお許しになった。圧倒的な神の恵み、圧倒的な愛と慈しみです。

 それゆえ、神を畏れて生活すべきです。キリストの十字架、キリストの血のゆえにこそ、神を畏れて生きることへと、私たちを招きます。「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、だれが耐え得ましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです」(詩編130:3,4)。主のもとに赦しがあり、それゆえ人は主を畏れ敬います。

 恐怖のゆえではありません。神が恐いお方だから、畏れ敬うのではありません。神は大いなるお方、私たちを超えてはるかに大きなお方です。それは愛と憐れみ、恵みと慈しみが私たちを超えてはるかに大きいのです。神の御前に愚かで怠惰な私たちのために、尊い独り子の血を流してくださったほどなのです。この神の圧倒的な恵みによって、むなしい生活から贖い出され、生き生きとした希望に生きる者とされている。その圧倒的な恵みのゆえに神を畏れる。それが私たちの畏れです。そして、その圧倒的な恵みに捕らえられて、私たち自身は弱く力ないものですが、希望をもって神に仕えることができます。感謝と献身をもって生きることができます。私たちの信仰と希望とは、恵みと慈しみで私たちを圧倒してくださる、この神にかかっているのです。