2024年11月3日礼拝
ペトロの手紙一 4章7節
万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。
「万物の終わりが迫っています」という言葉から、不安や恐れを感じることがあるかもしれません。けれども、この言葉は、私たちを神の御前に立たせて落ち着いた生活へと導く、励ましの言葉です。
「万物の終わり」の「終わり」は目的、目標を意味する言葉でもあります。終わりが迫るとは目的地が近づいているということであり、私たち信仰者はその目的地を知っているのです。それは、キリストが再び来られ、新しい天と新しい地が実現し、罪もけがれもない、もはや死はなく、悲しみも嘆きもない世界として完成されるということです。万物の創造主である神は、この世界をご自身の栄光の輝く世界として完成してくださいます。そのために、ご自身の尊い独り子さえ惜しむことなく私たちに与え、私たちを罪と死の力から贖い出してくださいました。私たちは、その完成の日を、信仰と希望をもって待ち望むことができるのです。
「だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」。「思慮深くふるまい」は、同じ言葉がマルコ福音書5章15節で「正気になって」と翻訳されています。けがれた霊から解き放たれて我を取り戻し、落ち着いて主イエスの前に座る者とされたということです。戦争や災害が伝えられて、世の終わりが近づいたと言われます。それらに惑わされて、揺れ動かされるのではありません。主なる神がもっとも相応しい時に万物を完成してくださいます。ですから、私たち信仰者は、人を不安に陥れる言葉に惑わされることなく、落ち着いて神の御前に留まります。
「身を慎む」は、もともと飲酒を慎むことを指し、節度をもって過ごすこと、節制することを意味して用いられます。アスリートは目標を目指して節制し、鍛錬にいそしみます。そのように、私たちも目標を目指す者として節制します。人生はマラソンに似ています。天の御国という目的地、ゴールを目指すマラソンです。私たちは人生の目的を知る者として、思慮深くふるまい、身を慎んで、人生のマラソンを走り抜きます。
そして、その生活は祈りを土台とするものです。「よく祈りなさい」とは、祈る回数の問題ではなく、生活全体が祈りである、祈りが生活の土台になっているということです。私たちはなお地上を生きる存在ですから、地上の事柄によって支えられることが必要でしょう。しかし、私たち信仰者は地上の事柄が最終的、決定的、究極的なものではないと知っています。主なる神が私たちの人生を支えてくださっているのです。その主なる神に依り頼む営みが祈りです。地上の事柄に人生をゆだねるのではなく、天地万物の主である神にゆだねてこそ、人生が揺らぐことのないものとされます。私たちの生活は、主に依り頼む祈りによって、主を待ち望み、思慮深く身を慎む生活として整えられるのです。
主なる神は、そのような私たちキリスト者の地上の生活を支え、導くために、教会を建ててくださいました。「よく祈りなさい」は、日本語の翻訳には表れませんが、二人称複数形です。「あなたがたは、よく祈りなさい」なのです。主イエスは、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)と約束されました。もちろん、私たちが一人でいるときも、主なる神は決して私たちを孤独にはされません。けれども、二人三人で集まるとき、聖霊が豊かに働いて、私たちは互いに支えられ、慰められ、励まされます。聖霊は自由に働かれますが、とりわけ人を通して働いてくださるお方だからです。私たちには教会で信仰の仲間、祈りの友が与えられています。私たちの主は、その交わりの中で、互いに励まし合い、支え合って生きることができるよう、私たちを導いてくださいます。主に結ばれて、終わりを知る信仰者として、神に祈りつつ、共に歩んで参りましょう。