2024年7月7日礼拝
ペトロの手紙一 1章13~16節

だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。


 「聖なる者となりなさい」。この「聖なる」とは「きよい」ということで、けがれがない、にごりや混じり物がないということです。潔白で欠けや過ちがなく、とがめられたり責められるところがないということでもあります。しかし、そのようなきよさが果たして私たちにありえるのだろうか、と思います。実のところ、聖書が「聖」という言葉で言い表すことは、本来、神のきよさです。生けるまことの神こそが聖なるお方であって、ただお一人きよいお方です。そのため、「きよい」「聖である」とは、聖書において、神と被造物との隔たり、区別を表し、また、神の超越性を意味する言葉でもあります。神は造り主であり、それ以外のすべて、私たち含めてすべてのものは造られたものであるからです。

 そうであれば、私たち人間に聖なる者であることが求められるとは、どういうことでしょうか。それは神に倣うことです。「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい」。神は造り主であり、私たち被造物とは区別されるべきお方です。神お一人が、真実、とこしえに聖であられます。しかし、そこで人は神を知り、神を賛美して生きる者とされています。人は神とは異なるもの、造られた被造物に過ぎません。けれども、神を知り、神をあがめるゆえに、人は聖なる者とされます。自らが造られた存在であることをわきまえ、創造主である神をあがめて生きる。そこに人の人としての本分があり、人が聖なる者とされる、あり方があります。

 これは献身ということです。自分を自分のものとするのではなく、神のものとしてささげて生きることです。「聖なる者となりなさい」とは、私たちを献身へと招く言葉です。自分を神のもとのしてささげて生きる、そこに、聖なる者として生きる生き方があります。それは、神によって造られたすべての人間の、本来、目指すべき生き方にほかなりません。

 そのために必要なことが、神の御前にへりくだって、神の子どもとして歩むことです。「無知であったころの欲望に引きずられることなく」とあります。「無知」とはまことの神を知らない無知、「欲望」とは自分の思いのままに生きる、自分を神とする生き方です。ペトロの手紙は、神を知らない無知と自己中心になってしまう欲望をしりぞけ、神の子どもとして、従順に、神の御前にひざまずいて生きることを教えます。

 神の召しに応えて、自らを献げて生きることができるだろうか。私たちは戸惑います。しかし、主なる神が本気で私たちを招いておられるのです。「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」。主なる神は、「聖なる者となれ」とおっしゃって、ご自身の独り子さえ惜しむことがありませんでした。御子を人として地上に生まれさせ、十字架に引き渡されました。御子イエス・キリストご自身、自らを私たちのためにささげて、十字架の死を引き受けてくださいました。神ご自身、すでに自らを私たちのためにささげてくださったのです。そして、私たちに、自分を神にささげて歩むことを求めておられます。

 そこに、私たちの本来のあるべき姿があるからです。神を見失い、自分自身をも見失って、右往左往してしまうのではない、まことの故郷を知る生き方があるからです。顔を上げ、前を向いて、希望をもって生きることのできる、真実の人生があるからです。そして、聖なる方に倣う、神に倣う、それは、今の私たちにとって、主イエス・キリストに倣うこと、キリストの御言葉に聞くことです。私たちのために命さえ惜しまず差し出されたお方に倣って、自らを神にささげて歩みます。目を覚ましてキリストを見つめ、御声を聞いて自らの生活を整えます。そこに、神ご自身が私たちを聖なる者としてくださる、神の御業が成し遂げられるのです。