2024年11月17日礼拝
ペトロの手紙一 4章12~16節

愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。


 「キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい」。驚くべき言葉です。しかし、主イエスはおっしゃいました。「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(マタイ5:10)。おそらくペトロは、主イエスのこの言葉を思い起こしていたでしょう。ペトロは、この御言葉に励まされ、試練や苦しみを善いものに造り変えてくださる主なる神に信頼して、こう言ったのだと思うのです。

 「キリストの苦しみ」とは、14節の「キリストの名のために非難される」ことであり、キリストのゆえに耐え忍ばなければならない苦しみです。キリストを信じるゆえにあざけられ、ののしられることがあれば、それはキリストの苦しみです。信仰のゆえに住む場所を追われること、仕事を失うこともそうでしょう。今は信仰と良心の自由が保証されている時代で、信仰のゆえに公にあざけられ、住む場所を追われ、仕事を失うことは、あまり考えられないでしょう。けれども、人間関係で悩まされ、もう関係を断ちたいと思うようなところで、なお信仰者として重荷を担い続けるならば、それはキリストのゆえに耐え忍んでいる苦しみです。また、キリスト教は戦争を容認するのかと非難される中で、私たちは主なる神を仰いで礼拝をささげています。そのようにして、信仰者はいつの時代も迫害と苦しみの中に置かれています。宗教を嫌う空気が広がり、キリスト教を批判する声があがる中で礼拝を守り続けることで、私たちはキリストの苦しみにあずかる者とされていると言えるでしょう。

 ペトロは、一つには、その苦しみを喜ぼうと申します。「キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜ぼう」。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。「キリストの栄光が現れるときにも」とは、キリストが再び来られて実現する神の国を指しています。再臨のキリストは、ご自身の栄光を誰にも分かるように現して来られ、私たちを栄光の御国に入れてくださいます。キリストの苦しみにあずかるとは、罪が取り除かれ、練り清められる営みにほかなりません。苦しみを通して練り清められて、神の御国にふさわしい者として整えられるのです。ですから、私たちは、栄光の御国において喜びに満ちあふれるものとされることを待ち望んで、苦しみにあずかることを喜びます。

 ペトロは、もう一つには、「決して恥じてはなりません」「むしろ……神をあがめなさい」と勧めます。主イエスが罪にまみれた私たちのことを兄弟と呼ぶことを恥とされない(ヘブライ2:11)ように、私たちもキリストのゆえに苦しみを受けることを恥とせず、かえって苦しみのゆえに神を賛美するのです。それは、キリストが苦しみを通してこそ罪と死の力に打ち勝たれたからです。そして、主イエスは約束してくださいました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)。私たちは、この勝利の主をほめたたえて、たとえ苦しみの中にあっても神をほめたたえるのです。

 私たちキリスト者は、苦しみや試練の中でも、前向きで積極的な生き方がすることができます。歯を食いしばり、険しい顔で苦しみを堪え忍ぶのではありません。前向きに、喜びのうちに、明るく歩むことができます。キリスト者は、人間の罪と罪ゆえの悲惨を知っていますから、決して楽観主義ではあれません。けれども、罪と死に打ち勝ち、勝利しておられる神を知っているゆえに、決して悲観主義でもありません。主なる神が罪の中にある私たちを造り変えて、罪と死に打ち勝たせ、栄光に招き入れてくださいます。ですから、主に信頼して、主の御業を期待して、顔を上げて歩むことができます。神をほめたたえて賛美しながら、とこしえの神の御国を目指して、心軽やかに歩み続けて参りましょう。