2024年11月10日礼拝
ペトロの手紙一 4章8~11節
何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。不平を言わずにもてなし合いなさい。あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。
私たち信仰者は、信仰と希望に立って、神の御業による終わりを待ち望みます。その信仰生活を支えるのは、交わりの中で共に祈ることです。その線に沿って、8節以下、「愛し合いなさい」「もてなし合いなさい」「互いに仕えなさい」と教えられています。これらはいずれも交わりの中で互いを建て上げることを教える言葉です。お互いを建て上げて共に祈ることが、終わりの日を待ち望む信仰者の生き方なのです。
「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい」。神に愛され、独り子イエス・キリストの犠牲によって神のものとされ、教会に生きることへと召された私たちは、互いに愛し合う者とされています。「心を込めて」とは、愛を貫くことを意味します。決意と志としての愛であり、忍耐強くどんなときにも愛して、終わりまで愛をまっとうするということです。
「信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中でもっとも大いなるものは、愛である」(コリント一13:13)。とこしえの価値を持つ信仰と希望と愛の中で、愛がもっとも大いなるものだと言われます。「愛は多くの罪を覆う」(箴言10:12)からです。罪が覆われるとは、もはや罪が問われないということです。そうであってこそ、罪の重荷から解き放たれます。私たちが共に生きるためには、そのことが必要です。罪が覆われて、重荷を解かれてこそ、私たちは、自分の居場所を得て生きることができます。そのために、まず神ご自身が御子イエス・キリストによって私たちの罪を覆ってくださいました。何と感謝なことでしょう。罪赦されて、神はもはや私たちの罪を問われない。それゆえ、私たちも互いに愛し合います。愛し合うことによって互いの罪を赦し、互いを愛で覆います。互いに赦し、赦されて、そこに罪を覆う愛があります。
続く「もてなし合いなさい」と「その賜物を生かして互いに仕えなさい」は、愛し合うことの具体化です。愛し合うことは、もてなし合うこと、互いに仕えることによって、具体的にあらわされます。
「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから」とあり、例外なく誰にでも賜物が与えられていることを心に留めましょう。私たちに命を与えた神は、合わせて豊かな賜物を授けてくださっているお方です。造り主なる神は、私たち人間を、ご自分に似せて造られました。それゆえ、神の満ち満ちた豊かさの中から、私たちにもそれぞれにふさわしい豊かさが分かち与えられています。それで「神のさまざまな恵みの善い管理者」と言われるのです。十人十色、私たち一人ひとりに違った色の賜物が分かち与えられていますから、その賜物を見いだし、磨くことが求められています。自分にどんな賜物が与えられているのだろうかと考えて、いろいろなことにチャレンジしてみることが大切でしょう。
そして、賜物は仕えるために与えられています。自分に与えられている資質や能力を用いて、ただ自分を高め、自分を満たすのではありません。自分の賜物は自分のものだと言って、自分を満たそうとするだけならば、かえって心満たされず、むなしさが募ることになりかねません。互いを建て上げるために用いる、仕えるために用いる。また、「すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです」とあるように、神と人に仕えて、神の栄光を表すことへと向かう。そこに賜物が与えられている目的があり、また意味があります。
私たちは共に生きる者として互いを建て上げて、神をほめたたえます。人間の素晴らしさ、美しさは、決して自分のために生きるところにはありません。愛することによって多くの罪が覆われ、人を命に生かすのであり、神と人に仕えて生きる生き方が美しいのです。キリストの再臨を待ち望んで共に祈り、また、賜物を生かして互いに仕えて参りましょう。