2024年8月11日礼拝
ペトロの手紙一 2章3~10節

あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。(3~5節)


 救い主イエス・キリストが「神にとっては選ばれた、尊い、生きた石」だと言われます。また、その主イエスに結ばれて神の民とされた私たち信仰者のことが「生きた石」と呼ばれます。私たちが生きた石として用いられて、霊的な家に造り上げられると言うのです。お城の城壁、石垣を思い起こしていただくとよいでしょう。目立つ大きな石だけで石垣を組むことはできず、大きさや形の違うさまざまな石が巧みに組み合わせられて、堅固な石垣が造り上げられます。ですから、大きい小さいにかかわらず、一つひとつが欠くことのできない大切な石にほかなりません。こうして、この手紙は、困難の中にある当時の信仰者を励ましています。あなたがた一人ひとり、教会という霊的な家に組み込まれている、かけがえのない石とされているのだ、ということです。

 石と言えば、子どもの頃、道路に転がる小さな石をけりながら小学校から帰って来たことを思い出します。私たち自身は、何の力もない、道ばたに転がる小さな石ころのような存在です。また、石は私たちの頑なな心、閉ざされた心を表しているとも言えるでしょう。しかし、そのような薄汚れた小さな石を拾い上げてくださった方がおられます。主イエス・キリストです。薄汚れた小さな石ころそのものには何の価値もありません。しかし、その石ころが組み込まれることによって価値が生まれます。教会という霊的な家に造り上げられて、一つひとつの石に主なる神からの使命がゆだねられます。主なる神が私たちを、頑なではない、神の御心に心開いて生きる「生きた石」に造り変えてくださいます。そうして、主なる神はおっしゃいます。「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」。

 そのための隅の親石として主イエス・キリストが来られました。「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです」。主イエスこそ、霊的な家である教会を造り上げていくために無くてはならない、神から選ばれた、尊い生きた石です。主イエス・キリストを隅の親石、かなめ石としてこそ、教会は生けるまことの神の神殿、神の民の祈りの家として建て上げられます。

 隅の親石とは、家を建てる最初に家の四隅となる場所に据える石です。その石の据え方によって、家の大きさも形も決まります。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」。主イエスは、十字架に示されるとおり、人間によって捨てられたお方です。けれども、主なる神は、その主イエスを隅の親石として霊的な家を造り上げられました。家を建てる者が、この石は役に立たないと言って捨てた、ところが、家が建ってみると、その捨てた石が隅の親石となっていた。十字架につけられた主イエスが土台になって霊的な家が造り上げられるとは、そのような不思議な神の御業なのです。そして、そういう不思議な仕方で私たちもまた生きた石として用いられて、霊的な家が造り上げられます。

 小さな石だと言って、投げ捨ててしまうのではありません。小さな石の一つも決して軽んじられない、それが教会です。いえ、教会だけではなく、本来は家庭や学校、職場や地域、国家においても、一人ひとりがかけがえのない存在として大切にされるべきです。たとえ国家という枠組みの中でも、数字で数えられるだけであってはならない、一人ひとりの人生があることがわきまえられなければなりません。そのことをきちんと心に留めるために、霊的な家である教会が要として与えられています。そして、この霊的な家である教会を要とするところで、私たちの一人ひとりも神の御前に健やかに生きる者として整えられるのです。