2024年6月23日礼拝
ペトロの手紙一 1章10~12節
この救いについては、あなたがたに与えられる恵みのことをあらかじめ語った預言者たちも、探求し、注意深く調べました。預言者たちは、自分たちの内におられるキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光についてあらかじめ証しされた際、それがだれを、あるいは、どの時期を指すのか調べたのです。彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのためであるとの啓示を受けました。それらのことは、天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなたがたに告げ知らせた人たちが、今、あなたがたに告げ知らせており、天使たちも見て確かめたいと願っているものなのです。
「天使たちも見て確かめたいと願っているものなのです」。「見る」は「のぞき見る」というニュアンスです。天上で神に仕える天使たちさえものぞき見たいと思うような恵み。それほどの恵み、喜びが、あなたがたに与えられている。その恵みを決して見失ってはならない、その喜びを決して手放してはならない。ペトロの手紙はそう語りかけます。
この箇所は、聖霊について、とても興味深いことを語っています。「預言者たちは、自分たちの内におられるキリストの霊が」とある、「預言者たち」は旧約の預言者です。この箇所から、旧約の預言者たちにもキリストの霊が与えられていたことが分かります。旧約聖書の「霊」「神の霊」「主の霊」は「キリストの霊」であり、三位一体の神の聖霊にほかならない。旧約時代、聖霊の油注ぎにより預言者、祭司、王が立てられました。その霊がキリストの霊であったからこそ、預言者たちは救い主メシアがやがて来られると告げ知らせることができました。祭司のささげる犠牲の献げ物は、キリストの十字架の犠牲を指し示すものとされました。王たちの働きは、永遠の大牧者、真実の羊飼い、まことの王イエス・キリストを指し示す働きとされました。ただし、主イエス・キリストはまだ来られていませんから、キリストを指し示すと言いましても、おぼろげであり、影のようであり、限界づけられていました。
それに対して、主イエス・キリストが来られ、十字架と復活の御業が成し遂げられました。そして、一つに集められていた弟子たちの群れに聖霊が注がれて、新約時代が始まります。聖霊は教会という共同体に注がれ、同時に聖霊が一人ひとりの上にとどまったように、教会に召し集められている一人ひとりに分け隔てなく注がれました。聖霊は私たちの内に住み、私たちを罪からきよめ、主イエス・キリストに結びつけてくださいます。そうして、私たちは主イエス・キリストがどのようなお方か、何をなさったのか、はっきり知ることが許されています。聖霊に導かれて、私たちは主イエス・キリストの復活の証人とされているのです。
新約時代に与えられている恵みは、この意味で、旧約時代には与えられていなかった、たいへん大きな恵みです。これが、「自分たちのためではなく、あなたがたのためであるとの啓示を受け」たということです。そして、その神の御業が今やあなたがたに告げ知らせられている。旧約の民が待ち望んできた神の御業が、こうしてまさにあなたがたに与えられている。それは、天使たちも何とかして見て確かめたいと願っていたものにほかならない。そのような驚くべき恵みが与えられている。
新約の信仰は旧約の信仰と一つです。旧約時代におぼろげであったものが、はっきりした仕方で与えられた。それが新約の信仰です。旧約の信仰も、真実には主イエス・キリストを信じる信仰であったのです。ですから、こう言うことができます。主なる神はアブラハムとその子孫との間に契約を結ばれました。私たち新約の神の民は、その契約の子孫に含まれているのか。そうです、含まれています。アブラハムとの契約はキリストの十字架と復活による恵みの契約を指し示しているのであり、主イエス・キリストに結ばれて、私たちもアブラハムの子孫です。約束の救い主イエス・キリストが来られて、旧約の神の民から続く、その子孫と呼ばれるべきは、もはやユダヤ人ではなく、新約のキリスト教会である。
福音は今やこの日本にも宣べ伝えられ、私たち異邦人もキリストを信じる信仰の民に加えられました。私たちも旧約の信仰を受け継ぐ神の民であり、アブラハムの子孫とされています。何という驚くべき神の御業でしょう。私たちも主なる神のご計画の中に確かに加えられています。主にある喜びに生きる信仰に固く立って、共に歩み続けて参りましょう。