2025年6月29日礼拝
マタイによる福音書 5章17~20節

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」


 今日の世界の大きな課題の一つは、正義をどのように実現するのかということでしょう。各地で戦争が続いていますが、必ずしも正義がないのではなく、正義と正義が対立しているのです。そこで大切なことは、いかに正義に生きるのかということではないでしょうか。そして、聖書も正義を教えます。それも人間の相対的な正義以上の、客観的で絶対的な正義、神の義です。それだけに、私たちがその正義をどのように受け取り、実践するのかは、とても大切なことだと言えるでしょう。

 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない」。「律法や預言者」は旧約聖書を指していて、主イエスは旧約の教えを軽んじてはならないとおっしゃいます。当時、主イエスは、安息日に病の人をおいやしになり、罪人とみなされていた外国人や徴税人と交際し、食事を共にされて、律法を捨て去ることを教えていると誤解される傾向がありました。主イエスは、その誤解をしりぞけて、旧約聖書、また神の律法の大切さは、決して変わることがないとおっしゃいます。

 「廃止するためではなく、完成するためである」。これが大切です。すなわち、それまでは完成していなかったということです。そして、主イエス・キリストが来られてこそ完成する。具体的には、主イエスは十字架につけられてくださいました。この世を生きる痛みと悲しみを味わい、私たちを愛して私たちの罪ととがを背負い、死んでくださいました。

 主イエスは、律法を「神を愛することと人を愛すること」に要約されました(マタイ22:37-40)。律法の精神は愛することです。律法とそこにある神の義は、愛という土台に基づいて理解され、成し遂げられます。そうでないと完成しません。パウロが、「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」(コリント二13:3)と言ったように、律法も愛がなければ無に等しいと言えます。無に等しい、何の役にも立たない、それどころか、人を縛ってしまうことになりかねません。

 人が正義を主張するとき、しばしばその正義は人を縛り、人を突き刺すものとなります。細かな掟が定められ、安息日には料理してはいけない、病気の人を治療してはならないと言われました。これらは神の律法そのものではなく、律法を守るために考えられた人間の掟です。それらを守っていれば神の義にかなうのだと教えられ、その掟で人をはかり、守れない人が批判されました。そこに愛はなく、彼らの考える正義は貫かれるでしょうが、人はその掟で縛られ、がんじがらめにされてしまう。主イエスは、そのユダヤの伝統を打ち壊して、本当の愛のある律法、神を愛し、人を愛することを目指す律法を取り戻されたのです。主イエスは、神と人を愛することを教え、律法を血の通う温かなものとして完成してくださいました。ここにファリサイ派の義にまさる義があります。主イエス・キリストにこそ、天の国に入れられる神の義があります。

 人が正義を貫こうとするとき、しばしば対立となります。神は、そのような正義の貫き方をしりぞけておられます。主イエスは人間の正義によって罪人の汚名を着せられ、十字架につけられ、そうして神の愛をお示しくださいました。律法は、すべてこの十字架に示された神の愛によって理解されます。そして、私たちが正義を貫こうとするとき、この愛を見失ってはなりません。それが、聖書が今、私たちに教えることです。正義は重んじられるべきです。けれども、愛がないならば、正義は無に等しい。このことをどう具体化していくかは、難しい課題です。しかし、まず心に刻みましょう。愛によってこそ正義は成し遂げられます。神の義が成し遂げられ、神の御国が来たるよう、祈り求めて参りましょう。