2025年10月5日礼拝
マタイによる福音書 28章16~20節
さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
主イエスは、「すべての民をわたしの弟子にしなさい」とおっしゃって、福音を宣べ伝えることを私たちに命じておられます。その際、まず「十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登」りました。主イエスが指示しておられた山はガリラヤ湖畔の小さな山で、むしろ丘と言ったほうがよいでしょう。主イエスと弟子たちは、しばしばガリラヤ湖のほとりの丘の上で共に祈り、交わりを深めてきました。このとき、弟子たちは、その丘で主イエスに出会い、ひれ伏して主イエスを礼拝したものと思われます。弟子たちは、礼拝と祈りを主イエスと共にする、まさに主イエスを中心とする交わりの内に生きていたのです。
福音を宣べ伝えるために、何よりも大切なことは、このときの弟子たちと同じく、信仰者である私たち自身が、まず主イエスに出会い、主イエスの前にひれ伏していることです。主イエスに結ばれて、生き生きとした信仰に生きていることです。福音を宣べ伝える者自身が福音によって生かされていないならば、いったいだれが福音を聞いてくれるでしょうか。福音を宣べ伝える務めがゆだねられる私たち自身が罪の赦しの恵みをいただき、復活の希望に生かされていることが大切です。ですから、私たちは自分の信仰生活、礼拝生活を大切にいたします。そのことによって、キリストの復活の使者、福音を宣べ伝える器として整えられるのです。
次に、主イエスは「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」とおっしゃいました。「権能」は「権威と力」を意味していて、病気の人をいやし、悪霊を追放した主イエスの御業を思い起こせばよいでしょう。罪を犯して嘆きと痛みの中にあった人を慰め、赦して立ち上がらせた、主イエスの権威と力です。主イエスの「一切の権能」とは、罪人を赦し、病の人をいやして立ち上がらせる、神の権威と力です。私たちは、その罪を赦す神の御業に仕えて、福音を宣べ伝えます。主イエスが「互いに赦し合いなさい」(ヨハネ13:34)と繰り返し教えたのも、互いに赦し合うことを通してこそ神の御業が行われ、福音が宣べ伝えられるからです。
さて、福音書は、驚くべきことに、主イエスに集められてガリラヤの丘に登った弟子たちの中に疑う者がいたと書き留めます。これには大切な意味があります。「疑う者」は複数形、「疑う者たち」です。十一人の中の一人だけではなく、むしろ全員が疑う気持ちを持っていたと読むことのできる文章です。大切なことは、それでも、主イエスの前に集められるということです。疑う思いもありながら、集められ、主の弟子、キリストの弟子とされ、さらには福音を宣べ伝えることへと遣わされます。
すなわち、信じたいと願ってひれ伏しながら、なお疑いを持ち、信じることに困難を感じている人が招かれて、主の弟子とされ、遣わされます。ここにもキリストの権能の性質が示されています。キリストの弟子であるとは、人間の側に根拠があるのではなく、徹頭徹尾、神の愛と神の憐れみに根拠があります。そうして、疑いがありながら、神の尊い宝をゆだねられて、宣べ伝えることへと召されるのです。まさにそこに福音の本質があり、またここに神の栄光が現れています。
福音を宣べ伝えるよう命じられて、私たちには戸惑いや不安があります。けれども、大丈夫です。一切の権能をお持ちの主がおっしゃいます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。これは、戸惑いの中にある私たちへの主イエスの約束です。そして事実、弟子たちは、この主イエスの約束に押し出されて福音を宣べ伝え、今や全世界に教会が建てられました。まさに神の御業にほかなりません。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。私たちも、この約束に信頼して、時が良くても悪くても福音を宣べ伝えて参りましょう。

