2025年3月23日礼拝
マタイによる福音書 4章18~25節

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。(18~22節)


 主イエスは、湖で網を打っていたペトロとアンデレに、「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」とおっしゃいました。二人はすぐに網を捨てて従いました。主イエスが、ヤコブとヨハネにも声をかけると、彼らもすぐに主イエスに従いました。マタイ福音書は、主イエスと出会うまでの経緯、彼らの心の戸惑いなどを省いて、極めて簡潔に、主イエスが召し出し、彼らがすぐに従ったこと、そこに絞って書き留めています。ここに中心があるという、その中心に集中しようとしているのです。

 ペトロたちは、主イエスに「すぐに」従いました。この「すぐに」は、主イエスに従うことの単純さを表しています。主なる神が召しておられる、それが第一であり、中心であり、そのとき、それ以外のことはすべて周辺的なことになります。脇に置かれるのです。ペトロは網を捨てて従いました。仕事が周辺的なことになったのです。生計を立てることは大切ですが、そこに人間としての根本があるわけではありません。ヤコブとヨハネは、父親をも脇に置きました。彼らが父親の面倒を見なかったというのではありません。けれども、人間としていかに生きるのかということにおいて、親や家族も中心的なことではないということです。

 信仰者として生きる、その人生の土台は、生けるまことの神の側にあります。すぐに従うとは、そのシンプルさ、単純さを表しています。主が招いておられる、主が召しておられる。そのことが決定的なのです。私たちの側に根拠があるのではない、私たちの側に理由があるのでもない。極めて単純です。主が召しておられる。その神の主権性を言い表して、「すぐに従った」です。それは神の招きと約束に基づく生き方であり、主なる神に信頼し、主にゆだねる歩みだと言うことができます。

 天地の造り主である神がおられ、私たちも神によって造られ、神の配慮と導きの中で生きています。それゆえ、私たちは本来、神に導かれて、神に背負われて生きる者でありました。そこから離れて、自分を見失い、私たちは今、自分の力で生きなければならないと思い込んでいる。自分の思いに従い、自分のよしとする生き方をしている。そうして、かえっていらぬ労苦を自ら背負い込んで、苦しんでいる。網を捨てて主イエスに従うとは、そこから離れて、神と共に生きることへと立ち帰ることです。これは、人は皆、本来、こういう生き方をするのだということです。

 主イエスは、「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」とおっしゃいました。主イエスに従うとき、神の御前にいかに生きるのか、私たちの生きる拠り所が与えられ、使命が与えられます。使命をもって生きるところに人間としての人生があります。主なる神は、私たち一人ひとりを、使命のある人生、役割のある人生へと導いてくださいます。

 主イエスは、ガリラヤ中を回って、御国の福音を宣べ伝え、また人びとの病気や患いをお癒やしになりました。そのことによって、人びとを神のものとして取り戻しておられます。神共にいます幸いへと招いておられます。そして、私たちが人間をとる漁師とされるのは、主イエスのもとへと人びとを連れて行くからです。主イエスこそが人を神のものとして回復させてくださいます。その主イエスに仕えて、主イエスのもとに人びとを連れて行くこと、それが人をとる漁師の役割です。

 私たちは、こうして主に従うことによって、実のところ、むしろ主に背負われて歩む者とされます。主に従い、主に背負われる幸いを知っているからこそ、ここにまことの幸いがあると、主イエスのもとに連れて行くことができます。主イエスに従うとは、その幸いな人生を生きることにほかなりません。私たちのために十字架さえ耐え忍ばれた、まことの救い主に従う幸いな人生を、共に歩んで参りましょう。