2025年8月24日礼拝
マタイによる福音書 6章9~15節

だから、こう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』
もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」


 主イエスは、「だから、こう祈りなさい」とおっしゃって、弟子たちに祈りを教えてくださいました。それが「主の祈り」です。この祈りを繰り返し祈ることによって、私たちは祈りを身に着けます。これは形に過ぎず、聖霊に導かれるまま自由に祈ってよい、必ずしもこの形に縛られる必要はないとも言えるでしょう。けれども、聖霊は御言葉において働かれます。聖霊は、この祈りの形を用いて私たちに祈りの言葉を与えてくださいます。そのような祈りの基本、祈りの出発点が「主の祈り」です。

 主の祈りは、「天におられる私たちの父よ」という呼びかけに始まり、六つの祈りで成り立っています。前半の三つは、私たちの思いを天の御父へと向けさせます。私たちはどうしても、自分自身の願いや願望が祈りなのだと思いがちです。もちろん自分のことを祈ってよい、自分のことを率直に打ち明けて何でも祈ることができます。けれども、発想の転換が求められています。自分であれもしないとこれもしないとと、自分のことをすべて自分で背負おうとしているから、自分のことばかり祈ってしまうのです。そうではなく、わたしのことを自分以上にご存じのお方がおられる、その方に信頼して、自分の手を開いて祈ります。そうすれば、「これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:33)との約束が実現するのです。私たちは、前半三つの祈りによって「何よりもまず、神の国と神の義を求め」(マタイ6:33)て祈ることへと導かれ、神のことよりも自分のことを優先しようとする過ちから守られます。

 後半の三つは、私たち自身のための祈りです。特徴的なことは「私たち」と言って祈ることです。主の祈りは共同的な祈り、共同体の祈りだと言えるでしょう。もちろん私たちは個人的に祈りますし、自分自身の必要を求めて祈ります。しかし、主イエスは、共に生きる者を意識すること、周りの人びとに対する視野の広さを求めておられます。決して私たちは自分一人で生きるのではない、私たちは一人として自分だけで生きることはできず、家族であれ友人であれ、交わりの中で生きる存在です。誰もが糧を求め、誰もが赦しを求めます。ですから、自分一人の糧を求めるのではなく、自分一人の赦しを求めるのでもない。自分一人が誘惑に遭わなければよいというものでもありません。主イエスは、自分だけのことを求めて祈ることから私たちを解き放ち、自分から自由にされて、他者と共に生きる者として祈ることへと私たちを導きます。

 主イエスは祈りに生きたお方です。主イエスご自身は罪もけがれもなく、罪の赦しを求める必要はないでしょう。悪魔の誘惑をしりぞけたお方ですから、誘惑にあわせないよう祈る必要もないでしょう。けれども、主イエスはそれらの祈りを必要とする私たち罪人の一人として祈りをささげ、その祈りを私たちにも祈るよう、教えてくださいました。それゆえ、主の祈りを祈るとき、私たちはこの祈りを祈る主イエスと一つにされます。主イエスに結ばれ、主イエスに背負われて祈ります。私たちは、祈りにおいてさえ過ちに陥り、罪を犯します。神の国と神の義を求めるよりも自分のことを祈り、周りの人のことなど忘れて自分さえよければよいという祈りを祈る、主イエスはそのような私たちの祈りにおける過ちをも背負って十字架につけられてくださいました。そうして、私たちのけがれた罪深い祈りが主イエスによって清められて、神の御前にかぐわしい香りの献げ物とされるのです。こうして、主イエスは、祈りにおいてまさに私たちを背負い、私たちの祈りを御父へと確かに届けてくださいます。

 このような祈りのお手本、祈りの形が与えられていることに心から感謝し、主の祈りを繰り返し祈ることによって、祈りを自分のものとして参りましょう。主なる神に信頼し、神を共に呼び求めて歩んで参りましょう。