2025年7月13日礼拝
マタイによる福音書 5章27~32節
「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」
「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
十戒の第七戒、「姦淫してはならない」が取り上げられます。「姦淫」とは、結婚している者が結婚関係にないところで性的な関係を持つことです。今で言うならば不倫です。旧約の律法で、姦淫は死に値する重罪とされています(レビ記20:10)。主イエスも、「みだらな思いで他人の妻を見る」と言って、結婚している男女の関係を壊しかねない、みだらな思いを問題としておられます。そして、第六戒「殺してはならない」の場合と同様、事柄を内面化して、私たちの心の内を問うておられます。
聖書は、男女の交わり、性的な営みそのものを否定し、禁止するのではありません。神は人を男と女に創造されました。人間は違う性質を持つものとして造られ、その違いが用いられて、「生めよ、増えよ、地に満ちよ」と命じられます。ですから、性の違いが祝福されています。また、主なる神は「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(創世記2:18)と言って、女と男を造り上げられました。「ついにこれこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」(創世記2:23)とは、もう一人の自分と言うべき相手に出会った喜びです。違いがありながらも、自分自身と呼ぶべき相手と出会い、一つとされて生きていきます。主イエスは、「二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(マタイ19:6)とおっしゃいます。互いに神から与えられた助け手なのです。それを人間の思いで引き離すことは、周りはもちろん本人であっても、してはなりません。
主イエスは離婚と再婚についても取り上げます。「離縁状を渡せ」とある通り、旧約の神の民において離婚も再婚も許容されてきました。モーセの「離縁状を渡せ」とは、男性優位社会の中で女性への配慮を求める教えです。主イエスは別の箇所でおっしゃいました。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない」(マタイ19:8)。ですから、この箇所は男性の身勝手を戒めていて、離婚や再婚を禁じるものではありません。
違いのある二人が一体となって共に生きる、それが結婚です。二人には違いがあり、互いに思いを共有し、心を一つにしていくこと、心の関係、霊的な関係を造り上げていくことが大切です。「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、すでに心の中で……」は、結婚とは何よりも心の関係である、そのことを指摘しておられるのです。結婚が心の結びつきだからこそ、心の動きが姦淫として指摘されます。
結婚には多くの喜びがあります。しかし、同時に罪ゆえの痛みや悲しみも生じます。親しい関係だけに傷つけ合うことも起こるのです。とりわけ人間の肉の欲が現れるところでもあります。結婚関係にない者との問題だけでなく、二人の間でも欲望のゆえに相手を傷つけてしまうことが起こります。配偶者の言葉や暴力に傷つけられ、とうてい共に暮らすことができない、そういう経験をすることもあるかもしれません。そのようなときは、「人が独りでいるのは良くない」との神の御心がどこにあるのか、御言葉に聞き、聖霊の導きを祈り求めるほかないでしょう。
主イエスは、罪ゆえの私たちの痛み、悲しみをご存じで、それを引き受けて十字架につけられてくださいました。それゆえ、私たちは神の御前に罪赦され、私たち自身、互いに罪を赦し合い、もう一度愛することへと向かわせられます。結婚とは、そうして繰り返し赦し、赦されながら、共に建て上げていく関係です。欲望のために関係を破壊しかねない者が、罪赦され、健やかに生きることを学んでいくのです。そうして、家庭が築かれ、豊かな喜びの泉とされます。それが主の約束です。信仰によって実る家庭の祝福が豊かであるよう、心から祈り願っています。

