2025年2月2日礼拝
マタイによる福音書 26章16~20節
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(20節)
多治見教会の今年の主題は「共におられる主イエス」です。「共におられる主イエス」とは、「神、我らと共にいます(インマヌエル)」であり、マタイ福音書全体の中心テーマです。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(マタイ1:23)。まことの神であるお方が人としてお生まれになり、主イエスは、福音を宣べ伝えて、「神、我らと共にいます」幸いを繰り返し明らかにしてくださいました。
主イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り込まれたとき(マタイ8:23-27)、舟を漕ぐことを弟子たちに任せて、主イエスは、お疲れだったのでしょう、お休みになりました。そうして弟子たちが舟を漕いでいると、湖に激しい嵐が起こり、舟が波にのまれそうになりました。もはや自分たちの力では乗り切れなくなり、弟子たちは主イエスを起こして、「主よ、助けてください」と願い出ます。すると、主イエスは起き上がり、風と湖をお叱りになり、湖を静めてしまわれました。こうして、御言葉は、主イエスが風や湖を静める力をお持ちであることを示します。そして、私たちは人生の歩みの中でしばしば嵐に出会うのであり、主イエスは人生の嵐、人生の荒波を静める力をもお持ちです。ですから、私たちは、風や湖さえも従わせる、大きな力をお持ちの救い主に依り頼んで歩みます。人生の困難において、「主よ、助けてください」と依り頼むことができる、そこに「神、我らと共にいます」幸いがあります。
また、この救い主は罪を赦す権威をお持ちです。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)。教会がどのような群れであるかを教えている、大切な御言葉です。「どんな願い事であれ」(19節)とあり、願い事をかなえていただくために二人三人が集められます。この「どんな」とは、どれほど実現が困難に思われる願い事であっても、という意味です。そして、その願い事とは、罪を認めて悔い改めに至ること(15~17節)であり、七回どころか七の七十倍までも赦すことです(21~35節)。教会は、罪の赦しのために二人三人が祈りを共にする交わりなのです。
罪の赦しは、私たち人間には困難です。自分の罪を認めて悔いることは難しく、また人の罪を赦してとがめないことも困難です。しかし、「……二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」と約束されます。それは、十字架の主が共にいてくださるからです。主イエスは、この罪の赦しの実現のために御自身をささげてくださいました。私たちの身代わりとして十字架につけられ、罪の償いを成し遂げてくださいました。罪と死の力を打ち破り、復活して、新しい命を勝ち取られました。そうして、私たちに罪の赦しと神との和解、また、神に聞き従う新しい命を与えてくださいました。
その主イエスが、天に上げられるに際して、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束してくださいました。その約束が、この一年の標語聖句です。これは、十字架と復活に基づく、主の約束です。この約束が、私たち信仰者の人生を支え、また、教会の交わりを支えます。主イエスは、天に上げられ、御父の右に座して、私たちを執り成してくださっています。また、聖霊を遣わしてくださり、今や、聖霊によって、主ご自身が私たちと共におられます。私たちは、このキリストの名によって集められ、この一年も礼拝をささげます。それは、人生の嵐において主に依り頼むためであり、互いの罪の赦しのために執り成して祈り合うためです。私たちは、キリストの名によって集められ、この「神、我らと共にいます」幸いの中を共に歩む者とされています。