2025年4月13日礼拝
マタイによる福音書 27章27~44節
それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。
兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。(27~37節)
裁判の後、総督ピラトは主イエスを鞭打って、ローマ軍の兵士たちに引き渡しました。兵士たちも主イエスを棒でたたくなどして痛めつけたでしょう。しかし、福音書は、肉体的な乱暴狼藉については多くを記さず、多くの人びとから嘲られ、罵られたことをていねいに書き留めます。
兵士たちは主イエスに赤い外套を着せ、茨で編んだ冠を頭に載せます。赤い外套はローマ皇帝の衣装、茨の冠は王様の冠、葦の棒は王様の杖や笏のつもりです。主イエスはユダヤ人の王だと名乗ったという罪状で訴えられました。それで王様らしく装わせ、「ユダヤ人の王、万歳」と言って嘲ります。しかし、主イエスがユダヤ人の王であるとは真実なのです。主イエスは、ユダヤ人だけでなく、私たちすべての者のまことの王であられます。けれども、このとき王様の格好で嘲られ、すなわち、王であることが拒否されました。そこには、神が遣わすまことの王を受け入れない、人間の罪があります。私たちは自分が自分の王でいたいのです。ユダヤ人や兵士たちだけでなく、生けるまことの神のご支配を拒む、私たちすべての者の罪が、ここに露わにされています。
その後、主イエスは、十字架を背負わされ、見せしめのためにエルサレムの町の中を練り歩かされて、ゴルゴタに連れて行かれます。その途中で主イエスは倒れてしまいました。そのため、キレネ人シモンが十字架を無理に担がせられます。彼はキレネ在住の離散のユダヤ人であり、過越祭に参加するためにエルサレムに来ていたものと思われます。主イエスの十字架の道行きに出会ったのは、人間的にはまったくの偶然だったでしょう。けれども、主イエスの十字架を背負うことを強いられて、彼は不思議な神の御業を経験することになりました。
大切に心に留めましょう。真実には、シモンが主イエスの十字架を「代わって」背負ったのではありません。真実には、シモンが背負うべき十字架を主イエスが「代わって」背負ってくださっていたのです。キレネ人シモンの出来事は、私たちの背負うべき十字架を主イエスが背負ってくださったことを明らかにしています。主イエスは真実に、私たちのまことの王であられます。その王をしりぞけて、私たちは自分が王であろうとする。シモンは自分にもその罪があることに気づき、無理に担がされた十字架は、真実には自分が背負うべき十字架であったと考えました。そうして、彼はこの出来事をきっかけにして、キリスト者になったと伝えられるのです。シモンの十字架の出来事は、私たちの十字架をこそ主イエスが代わって背負ってくださる、その象徴にほかなりません。
主イエスは、こうして十字架につけられ、決して十字架から降りようとされませんでした。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」。「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」。そう言われて、しかし、主イエスは決して十字架から降りようとされません。それは、私たちを愛して、愛し抜いてくださるからです。主イエスは、十字架を背負うことで私たちの罪とけがれを背負い、神の御前に私たちの罪の代価をすべて支払い、私たちの贖いをすべて成し遂げてくださいました。今や、この十字架の主イエス・キリストが、私たちと共におられます。十字架において王となられたお方が、私たちの真実の救い主として、世の終わりまで、いつも私たちと共にいてくださるのです。
たとえ人は十字架を嘲ろうとも、十字架には神の知恵と力があります。十字架には、私たちを愛してくださる、神の愛があります。私たちは、私たちの背負うべき十字架を背負って死んでくださった主イエス・キリストこそを誇りとし、この十字架の救い主に感謝と賛美をささげます。