2025年6月1日礼拝
マタイによる福音書 5章13~16節

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」


 「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」。キリスト者は神のものとされ、天の御国を目指して生きるのであり、キリスト者の生き方はこの世の普通の生き方と違っています。違いがあるゆえに摩擦が生じて、迫害を受けることがあります。しかし、その一方で、キリスト者は、その存在そのものが地の塩、世の光とされている、すなわち、この世において大切な役割を果たすのだということです。主イエスはそうおっしゃって、私たちを励まし、力づけてくださっています。

 「あなたがたは地の塩である」。キリスト者は塩味のある存在だということですが、神のものとされて、天上の価値観をもって生きる、その生き方が塩味になります。味噌汁も、あまりに塩辛いと飲めませんが、塩梅がよいとおいしいものです。ですから、塩味があることが大切です。

 そして、塩に腐敗防止の効能があるように、キリスト者の存在には、この世の堕落と腐敗を食い止める力があります。この点で、「キリスト者の存在はこの世の良心である」と言われます。心の良心が、何か悪いことをしそうなとき、してしまったときに、それは悪いことだ、人間としてしてはならないことだと、自らに警告します。キリスト者の存在は、その良心のように、何が悪いこと悲しむべきことなのかを社会全体に指し示し、警告します。そして、悪いことをしてしまったとき、心の良心が痛みます。良心が悲しむのです。そのように、この社会で起こる心痛む悲しい出来事に、私たちキリスト者は、この世の良心として、心を痛め悲しみます。主イエスが痛みと悲しみを味わって、執り成して祈り、十字架につけられました。その主イエスのあとに続いて、私たちも痛みと悲しみを覚えて祈ります。そこにキリスト者の役割があると言えるでしょう。

 「あなたがたは世の光である」。「世の光」とは、「世を照らす光」「世界を照らし出す光」です。信仰者は、ただ自分が照らされればよいのではなく、「家の光」でもなく、「世の光」「世界の光」です。この世界を広く照らし出す。主イエスは、私たちが小さくまとまっていることを決して良しとされません。むしろ大きく広げられること、散らされて、散らされたところで光を輝かすことが求められています。

 この世は、まことの光である生けるまことの神を見失い、暗闇に覆われています。そこに、まことの光である主イエスが来られました。ですから、「世の光」とは第一には主イエス・キリストで、その主イエスに照らされて、私たちも光り輝く者とされます。ですから、私たちの場合、鏡のように光を映し出して輝くというものです。主イエスの光に照らし出されて、私たちの内にある醜いものが露わになることがあるでしょう。私たちは自らの内に闇を抱えているのです。けれども、照らす光は十字架のキリストの光です。それゆえ、私たちの隠しておきたい闇さえ造り変えられて光とされる、闇ももはや闇と呼ばれない、そのような恵みをいただくことができます。ですから、「あなたがたの光を人びとの前に輝かしなさい」とは、決して自分を誇ることではありません。自分を造り変え、新しくしてくださった神を賛美することだと言えるでしょう。

 こうして、神の御言葉を聞いて信じ、悔い改めて生きようとする者は皆、地の塩であり世の光です。存在そのものが、神によってすでに新しくされて、いつのまにか地の塩、世の光として用いられているのです。そして、主なる神は、私たち一人ひとりを遣わされます。おのおのの生活の場で、生き方や価値観の違いに戸惑うことがあるでしょう。けれども、私たちは、散らされ、与えられた町で歩き回って生活し、その町のために祈ります。心を痛めて祈り、執り成して祈り、神を賛美し、神を証しします。そこに、神と人に仕える私たちの幸いな人生があるからです。