2025年9月14日礼拝
マタイによる福音書 6章19~24節
「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」
「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
「地上に富を積んではならない」で「富」と翻訳されている言葉は、宝物を指す広い意味の言葉です。「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」とは、自分が心を置いているところに自分の宝があるということです。四六時中、アイドルのことを考えているならば、そのアイドルが自分の宝なのです。主イエスは、あなたはどこに自分の心を置いて、何を宝として生きているのかと私たちに問いかけておられます。
「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする」。ルカ福音書の「愚かな金持ち」のたとえ話(ルカ12:13-21)を思い起こします。作物が豊作で、もっと大きい倉を建てるとは、経済的な合理性で考えるなら当然のことでしょう。けれども、主イエスは、地上のものはいずれ朽ち果てると指摘します。それを自分の宝として、そこに人生の土台を置くのでよいのかと問うておられます。蓄えること、備えることがまったく不要だと言うのではありません。けれども、それらはいったん何かあると、命もろとも大地もろとも崩れ去るものなのです。
「体のともし火は目である」の「体」は肉体だけでなく、人の全体を意味します。「目は口ほどに物を言う」と言われるとおり、人の生き様が目に表れるということです。ある一事にまっすぐに取り組んで、目が澄んでいる方に出会うことがあります。目に力があり、光があるのです。逆に様々なことで心が乱れていると、目にそれが表れて、目が濁ってしまいます。また、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と言われ、信仰者として生きるならば、神に仕えることこそを選びなさいと求められています。神か富か、天上か地上か。私たちは、主イエスに出会う幸いを与えられ、福音の喜びを知る者とされています。天上に心を置く喜びを知っているのです。しかしなお地上のことに心引かれてしまう。主イエスは、そのような私たちにおっしゃいます。「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。富や地上のことに捕らえられるのであってはならない。天に心を置いて生きる者であれ、ということです。
こうして、この箇所が私たちに求めていることをひと言で言うならば、一途さです。一途に天に心を置くことです。そうして、澄んだ目で生きることです。目が澄んでいてこそ、私たちは明るく生きることができます。一途でないと、目が濁り、私たちの中にある光は失われ、全身が暗くなってしまう。せっかく信仰者とされ、光に照らされて歩む者とされた、それなのに全身が暗くなってしまってよいのか。よいわけがありません。
実際のところ、目が濁り、全身が暗くなって、そのため主イエス・キリストを証しする力を持つことができていない。それが、今の私たちの姿、日本のキリスト教会の姿なのかもしれません。改めて聖霊の導きを祈り求めます。主イエスが私たちを悔い改めへと導き、澄んだ目で主なる神に仕え、天に心を置いて生きる者としてくださると信じます。
心を天に置くとは、言い換えるならば、自分のために生きることから解き放たれることです。何かにまっすぐに取り組んでいる人の目が澄んでいるというのも、その人が、自分のために生きるのではなく、誰かのため、何か社会のために生きていることが多いでしょう。「天に宝を積む」生き方とは、自分のためではなく、他者のために生きることです。主なる神を畏れ、神と人に仕えて生きる、そこに私たちの幸いな人生があります。そのとき、主に信頼して、不安と恐れから自由にされ、また、自分自身からも自由にされます。互いに手と手を取り合って、分かち合い、喜びをもって生きる者とされるのです。そのような、天に宝を積む、天に心を置く人生を、共に祈り求めて参りましょう。

