2025年2月9日礼拝
マタイによる福音書 3章1~12節

そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」
ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。(1~6節)


 洗礼者ヨハネは、主イエスの先駆けとして現れた人物です。また、最後の旧約預言者だとも言われます。旧約最後の預言者であるマラキの後、およそ400年にわたり預言者は登場しませんでした。イスラエルの人びとは、生ける神の御言葉を聞くことはもはやできないのかと、嘆いていました。そこに、このヨハネが登場したのです。

 ヨハネは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と呼びかけました。「悔い改め」は、一般的には「悔いて改める、反省して心を改める」ことと理解され、心の内面の事柄だと考えられているようです。しかし、聖書においては、私たちの生活、また人生そのものが変わることを求める言葉です。ヨハネが「悔い改めにふさわしい実を結べ」と言う通り、具体的に実を結ぶことが期待されるのです。それは人生の方向が変わるのです。神などいないという生き方をしてきた。自分中心であった。そこから、神がおられる、神がわたしの人生を導かれる。神が喜ばれる生き方をする。そのように人生の方向が変わる。人生の方向転換です。

 「悔い改め」は、洗礼者ヨハネがこのとき初めて言い始めたことではありません。福音書はヨハネを指して「預言者イザヤによってこう言われている人である」と言います。それは、洗礼者ヨハネが預言者イザヤと同一線上にあるということです。だからヨハネは最後の旧約預言者です。たとえばイザヤ書44章22節にこうあります。「わたしはあなたの背きを雲のように、罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った」。「立ち帰れ」とあり、これが悔い改めです。主なる神は、旧約の昔から、ご自分のもとに立ち帰れと招いておられました。神のみもとにこそ、私たちの真の命、真の幸いがあるからです。

 洗礼者ヨハネは、悔い改めの福音を宣べ伝えて、人びとに洗礼を授けました。多くの人がヨハネのところに来たようです。驚くべきことですが、当時の人びとが霊的な渇きをおぼえていたことがよく分かります。

 洗礼は、水によって体のよごれが洗い清められるように、霊的なけがれ、私たちの罪が、主なる神によって洗い清められることのしるしです。また、パウロが「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6:3)と語る通り、私たちが罪に死に、新しい命に復活した、新しい命のしるし、新しい誕生のしるしでもあります。

 生まれる、誕生とは、自分の力で成し遂げられることではありません。このとき、ヨハネはファリサイ派やサドカイ派の人びとに洗礼を授けませんでした。彼らは自分たちこそ洗礼を受けるにふさわしいと考えていたのでしょう。それは、自分の力で無理矢理生まれようとするようなことなのです。そこに真実の悔い改めはありません。悔い改めは自らの無力を認めることでもあります。神の御前に何の力も功績もないことを認めて、神に依り頼むのです。それが神に立ち帰るということです。そのとき、主なる神は、「こんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出す」、ご自身の御業、神の御業を成し遂げてくださいます。そうして、罪人である私たちが神の恵みにより新しく生まれる者とされるのです。

 「悔い改めよ、天の国は近づいた」。この御声に耳を傾けて、主の御前にひざまずくとき、神の御言葉と聖霊が、私たちの思いを打ち砕き、主イエス・キリストを迎えることへと私たちを整えてくれます。神ご自身が、私たちを絶えず悔い改める者として造り変えてくださるのです。そのしるしとして、洗礼が授けられています。御言葉によって日ごとに悔い改め、主イエス・キリストに結ばれて、共に歩んで参りましょう。