2025年8月31日礼拝
マタイによる福音書 6章16~18節

「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」


 私たちは皆、祈りをささげます。その祈りにともなう行為として食事を断つことが断食です。人は、心に嘆きや悲しみを抱えているとき、食欲が湧いてこないということがあります。悲しみや痛みを主に訴え、祈りをささげて、食べること欲しない。断食は、そういうところから自然発生的に始まったものと思われます。また、病のいやしを求めたり、何か切なる願いがあって、食事を断って祈ることもあります。自分のすべてを注いで祈る。断食は、そのような祈りの姿の一つであり、心からの断食、心からの祈りとして、大切にされるべきものだと言えるでしょう。

 主イエスは、「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない」とおっしゃいました。これは、先ほどの断食とは少し種類が違います。当時のユダヤの人びとは罪を嘆いて断食する日を定めていました。主イエスは、その断食が人に見てもらうものとなり、人から称賛を得るための手段となっていたことを戒めておられます。断食は祈りの姿の一つであり、神を礼拝する営みです。祈りと同様に断食も、隠れたところにおられる神へと向かうものにほかなりません。

 今日、祈りの姿の一つとして、私たちも断食を取り入れることがあってもよいのだと思います。断食にはいろいろな仕方があります。食事をすべて断つことはむしろ少なく、夕食は食べるが朝食・昼食は食べないとか、肉類は食べないとか、そういう仕方で行われることが多いのです。かつて雀のお宿を取得したとき、宣教師の先生方がアメリカで献金を訴えて、信徒の方々はそれに応えて、何かを食べることに代えて、その分を献金してくださったとうかがっています。何かを食べることを控えてとか、一食を食べないなどして、その分を祈りをもって献金することは、祈りと施しの姿の一つとして大切にすべきことであるように思います。主イエスは、善い行いとして施しと祈りと断食を取り上げられましたが、こうしてこれらはすべて、心から神を礼拝することとして一つのことなのです。

 主イエスは続いて「あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい」とおっしゃいます。「頭に油をつけ、顔を洗う」とは喜びの表現です。断食に際して、喜び祝う振る舞いを求めておられます。これは、罪を嘆いて断食しますが、罪を嘆くとは悔い改めて神に立ち帰ることであり、本来は喜びではないかということです。罪を悔い改めることによって、新しいものへと造り変えられます。ですから、私たち信仰者の基本となる波長は喜びです。それも、私たちの喜びという以上に神の喜びです。放蕩息子のたとえで、父親は帰って来た弟息子を遠くから見つけて走り寄り、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」と言って、喜びの祝宴を開きました(ルカ15:11-24)。このたとえのように、神が私たちのことを喜んでおられる。この喜びが私たちの信仰生活の土台です。ですから、顔を見苦しくするのではなく、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。そうして、喜びを表すものでありなさい、これが主イエスが私たちに求めておられることです。

 イザヤは、「わたしの選ぶ断食とはこれではないか」と言って、隣人を憐れみ、施すことを教えます(イザヤ58:6-14)。「軛を負わすこと、指を指すこと、呪いの言葉を吐くことをあなたの中から取り去るなら、飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる」(イザヤ58:9,10)。とても印象的な御言葉です。福音の喜びと神への感謝に揺り動かされて、人を助け、人を生かすことを祈り求めること、そこに本当の断食があります。主イエスが与えてくださった、神の子とされた喜びの中で、この新しい断食に生きる者でありたいと願います。