2025年3月16日礼拝
マタイによる福音書 4章12~17節
イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
主イエスは、洗礼者ヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれました。「退かれた」とは身を隠したように感じる表現です。しかし、ヨハネを捕らえたヘロデはガリラヤの領主です。ガリラヤはヘロデの本拠地であり、身を隠すならば、ユダヤに留まったほうがよかったでしょう。「退く」と翻訳されるギリシア語は、「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」(2:12)の「帰って行った」、「ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り」(2:14)の「去り」と同じです。どちらも主なる神が不思議な仕方で導いておられます。それがここでも続いているのだと言えるでしょう。すなわち、御父によって救いの御業の舞台であるガリラヤへと導かれたということにほかなりません。
主イエスはガリラヤ湖畔の町カファルナウムに住まわれました。「ゼブルンとナフタリの地方」とはイスラエル十二部族のゼブルン族とナフタリ族がかつて住んだ土地ということです。「湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地」の湖はガリラヤ湖で、湖沿いの道とはヨルダン川に沿って始まり、ガリラヤ湖を経てさらに北上する道です。その道のかなたのガリラヤであり、都エルサレムから遠い田舎の地方というニュアンスです。
そして「異邦人のガリラヤ」と言われます。ガリラヤはカナンの北部に位置し、北の諸外国の侵略に繰り返し悩まされてきました。絶えず戦禍にさらされ、苦しめられた地域なのです。アッシリア帝国が攻め込んできたときには真っ先に占領され、人びとは散り散りばらばらにされました。ガリラヤから連れ去られる人があり、逃げ出す人がおり、人が住まなくなったところには外国の人びとが連れて来られて住みました。そして、時が経つと混血が進みます。それでイスラエルの純血が失われると言われ、ユダヤの人びとから非難されました。ガリラヤは暗黒の地で、ガリラヤから良いものが出るはずがないと言われていたのです。
しかし、預言者イザヤは言いました。「異邦人のガリラヤは、栄光を受ける」(イザヤ8:23)。これが主なる神の約束です。ガリラヤの苦しみを主なる神はご存知です。その苦しみをそのままにはなさらず、むしろ栄光を与えてくださいます。そしてマタイ福音書は言います、「暗闇に住む民は、大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が差し込んだ」(4:16)。イザヤを通して与えられた約束が今や実現した、「異邦人のガリラヤ」と言われて蔑まれていたが、その暗闇に住む民は大きな光を見た、死の陰の地に住む者に光が差し込んだ、ということです。まことの救い主が来られ、「悔い改めよ」と言って宣べ伝え始められたからです。
主イエスは、旧約の時代から戦禍の苦しみを味わい、差別と抑圧にさらされていたガリラヤで、救い主としての御業を始められました。また、十字架と復活の後、天に挙げられた主イエスは、「ガリラヤへ行きなさい」とおっしゃったのであり、主なる神のまなざしは、今もガリラヤに注がれています。すなわち、苦しみの中にある人びとに注がれています。
その苦しみは、戦禍や差別、抑圧の苦しみだけではありません。主イエスは、ヘロデの領地で「悔い改めよ」と宣べ伝えました。それは、ヘロデも暗闇の力に捕らえられていたからです。生けるまこと神を見失い、自分の目によいと思うことをして生きる、そこに人の罪ゆえの暗闇があり、暗黒があります。それは今の私たちをも覆う暗闇です。主イエスは、今の私たちにも「悔い改めよ。天の国は近づいた」とおっしゃって、ご自分のもとへと招いてくださいます。人生の方向転換をして、神を認め、神がおられると信じる生き方をする。そのところでこそ、確かな光の中を歩むことができます。主イエスは、そのために私たちの罪を背負って十字架につけられてくださった、まことの救い主であられます。