2025年7月6日礼拝
マタイによる福音書 5章21~26節
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」
ここでは、十戒の第六戒「殺してはならない」が取り上げられています。主イエスは、「わたしが来たのは律法や預言者を……廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5:17)とおっしゃって、律法の精神は愛することであり、神を愛することと人を愛すること、その二つで一つの愛だと教えてくださいました。ですから、律法は愛することによって完成されます。21節以降、その具体例が示されていきます。
「人を殺した者は裁きを受ける」は、十戒にはありませんが、律法の中で、人を故意に殺した場合には死刑に処せられること、事故のような場合には裁判が行われることなどが示されています。旧約の時代にあってすでに、人権に配慮した規定が設けられていたと言えるでしょう。
ユダヤの人びとは、「殺してはならない」を知り、理解していました。それは、文字どおり殺さないということです。もちろん、腹を立て、怒ったり憎しみを持ったりすることが殺人のきっかけになることがありますから、腹を立てないほうがよいことに間違いはありません。けれども、根拠のある怒り、正義ゆえの怒りがあって、怒るべき時があります。また何よりも、人間は心の内側まで押さえつけることはできません。ですから、文字どおり殺さなければよいとされました。その意味で、外面的、形式的に理解されました。そこに留まるほかない事柄なのです。
主イエスは、それを内面化して、私たちの心の内を問われます。「しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける……」。兄弟や姉妹がいて、腹を立てたり、バカと言ったことのない人はいないでしょう。主イエスは私たちの心の内を問われます。そして、これが神の御前に罪を問われるということなのです。神の御前に罪人か否か、それは心の内が問われることであり、それゆえ、私たちは皆、神の御前に罪人なのです。そして、実のところ、自分の心の良心も自分を責めて、良心の呵責を感じます。自らの良心の痛みにさいなまれ、罪意識に苦しめられる。人間とはそのような存在にほかなりません。
そして、大切なことは、私たちの内側も神の御前にきちんと取り上げられ、裁かれる、それゆえにこそ、キリストの十字架によって、その罪が赦されます。兄弟に腹を立て、バカと言い、行いだけでなく言葉においても心の内においても罪を犯す、そのような私たちの惨めさをご存じで、主イエスはそのすべてを背負って十字架につけられてくださいました。主イエスが私たちの心の内をも問う、だからこそ私たちの心の内の罪まで赦されます。主イエスは、私たちの心の内を問うことによって、心の内の罪まで背負い、罪の赦しを与えてくださるお方です。そうして、ご自身の贖いと赦しの十字架を私たちの心の内に立ててくださるのです。
もう一つ、主イエスは、命を与えること、生かすことへと進むよう教えておられます。自分の行動を制限し縮小する、消極的な方向ではなく、積極的な方向で考えるよう促すのです。「……まず行って兄弟と仲直りをし……」。「してはならない」を考えるのではなく、仲直りし和解することを考えます。神が求めておられるのは愛することであり、そうしてこそ律法学者やファリサイ派の人びとの義にまさる義が実現します。
私たちには互いを傷つけてしまう罪があります。心の内に腹を立て、呪うこともあるのです。けれども、私たちは、神によって共に生きる存在として造られました。それゆえ、決して孤独に生きるのではありません。怒りを捨て、仲直りし、和解し、もう一度チャンスを与え、生きることへと力づけ、励ます。教会は、そのような罪の赦しの共同体として建てられています。主イエス・キリストは、そのために十字架につけられ、私たちの贖いを成し遂げて、和解の礎となってくださいました。

