2025年2月23日礼拝
マタイによる福音書 3章13~17節

そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。
イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。


 洗礼者ヨハネのもとに主イエスが来られました。ヨハネは、主イエスに洗礼を思いとどまらせようとします。洗礼は水による洗いのしるしですが、罪人のしるしでもあるからです。洗礼は、洗い落とされるべき霊的なけがれがあること、神の御前に罪人であることを意味します。自分が罪人であることを認め、悔い改めを言い表して洗礼を受けるのです。ところが、主イエスは、人となられましたが、まことの神であられます。洗い清められるべき罪やけがれをお持ちではありません。それでヨハネは、わたしこそあなたから洗礼を受けるべきですと言います。

 しかし、主イエスは、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」とおっしゃいます。ヨハネの判断を認めながらも、それに増して、今、行うべき正しいことがあるということです。「正しいことをすべて行う」とは「神の義を満たす」という言葉で、「神の義」は神の御心、ご計画を意味します。父なる神が罪人の救いを計画し、実行しようとしておられます。そのために、この洗礼が用いられます。ですから、神のご計画を止めてはならない。神のご計画が成し遂げられることこそ、我々にふさわしいことである。

 主イエスが洗礼を受けると、天が主イエスに向かって開き、神の霊が鳩のように主イエスの上に降ります。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という御父の御声が聞こえます。御父が主イエスの洗礼を喜んでおられるしるしです。主イエスが洗礼を受けて、ここに神の義、神の御心、神のご計画が成し遂げられる、その始まりがあります。

 主イエスが洗礼を受けられたとは、一つには、父なる神の御心、またご計画への従順であり、賛同です。私たちを罪の内に滅びるままにすることなく、罪の赦しと新しい命の祝福へと招き入れる、そのことを主イエスもご自身の御心また喜びとして受け入れられたということです。

 そうして、主イエスは洗礼を受ける多くの人びとの列に加わってくださいました。主イエスが洗礼を受けられたとは、二つには、罪人の一人に数えられたということです。私たちの友となり、私たちの罪を背負う道を歩まれるのです。いや、それは友となるどころか、私たちのしもべとさえなられるということです。そうして、ついには十字架につけられてくださいました。ここにすでに、私たちを罪から救い出す神のご計画の成就の始まりがあり、キリストの十字架への道の始まりがあります。

 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」は、イザヤ書42章1節を用いた御父の言葉です。イザヤ書は、「彼の上にわたしの霊は置かれ」と続きます。主イエスは神の霊、聖霊に導かれるお方です。聖霊は神の力であり、旧約において、神の霊は焼き尽くす炎のような厳しさで神の怒りと裁きをもたらしました。しかし、もはや主イエスのゆえに、神の怒りと裁きがそのような仕方で私たちに迫ることはありません。「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく」とある通り、ほのかな灯のような私たちの信仰の灯を決して消すことなく、むしろ明るく燃え立たせてくださる、希望の光を新たに燃やしてくださるような仕方でもたらされます。そのために、主イエスは、神の厳しい怒りと裁きを自らに引き受けて、十字架につけられてくださいました。

 今、私たちの受ける洗礼は、この救い主イエス・キリストに結ばれることを意味します。命の霊である聖霊が与えられ、罪を赦され、キリストにある新しい命、復活の命を生きるものとされます。この主イエスのもとに来ましょう。ここに、主なる神が私たちに与えてくださるまことの救い主がおられます。この主イエス・キリストに結ばれて、神をほめたたえ、主イエスを道とし、真理とし、命として歩んで参りましょう。