2025年7月20日礼拝
マタイによる福音書 5章33~37節
「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている」。旧約のレビ記19章12節、民数記30章3節などに基づいて、偽って誓うことがないよう、教えられていました。十戒の第三戒「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト20:7)、第九戒「隣人に関して偽証してはならない」(同20:16)も、この教えに関係する御言葉です。
誓い、誓約とは言葉の拘束力を認めることです。誓約すると、自分の言葉に拘束され、縛られます。「偽りの誓いを立てるな」と教えられ、当然、人びとは偽って誓うことがないよう心がけます。一つは、積極的な仕方で、誓約したことを誠実に実行するよう心がけます。もう一つは、消極的な仕方で、守ることのできない誓約はしないということです。
ところが、もう一つの道を教えられることがあったそうです。「天にかけて」「地にかけて」「エルサレムにかけて」「あなたの頭にかけて」とあります。主にかけて誓って、守ることができないと、主をけがすことになる。そのため、ほかのものに対して誓うのだそうです。神に対して誓うことに最も拘束力があり、天、地、エルサレムと、神から遠ざかるにつれて拘束力は弱くなる。「頭にかけて」などは、人間の思いに左右されて拘束力にはならず、そういう誓いは破ってもよい。屁理屈のような議論ですが、人間は時にそのような愚かな議論に陥ります。主イエスは、その愚かな議論をしりぞけて、「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである」とおっしゃいます。正しいことは正しい、違っていることは違っている、ただそう語るのであり、真実を語るということです。黒を白に言いくるめるような仕方で誓約を弱めてはならない。抜け道を考えるのではない。ただ真実を語れ、ただ誓約に真実であれ。主イエスは、そうおっしゃいます。
ですから、主イエスは誓約を禁止し、否定するのではなく、誓約に対する不真実を戒め、誓約への真実を求めておられます。「殺してはならない」「姦淫してはならない」について、私たちの心の内を問われたように、誓約においても心から真実であることを求めておられます。そして、主イエスは、誓約においても私たちを内側から造り替えて、まったく新しくしてくださるお方です。私たち人間は愚かで、誓約を守る言葉の真実を持ちません。それに対して、主なる神は言葉の真実をお持ちです。「わたしは自分にかけて誓う。わたしの口から恵みの言葉が出されたならば、その言葉は決して取り消されない」(イザヤ45:23)。この主なる神が、ご自身の誓約に基づいて御子イエス・キリストをお遣わしくださいました。そして、主イエスが私たちの言葉の罪をも赦し、私たちが誓約の言葉に真実に生きることができるよう、支え、励まし、導いてくださいます。
私たちの生活は誓約と切り離すことができません。それらに積極的に、また誠実、真実に向かい合うことが求められます。そのとき、大切なことは、一つは祈りです。私たちは十字架の主に背負われて祈ります。それが「主の御名によって祈る」ということです。主なる神が、不真実な私たちを背負って、真実へと造り変えてくださいます。私たちの誓約は、主の御名によって祈ることによって成し遂げられます。祈りが私たちの誓約の真実、言葉の真実を支えます。もう一つ、日常の言葉が不真実で、誓約の言葉だけは真実だということはあり得ません。日頃から、神の御前に真実に生きる、とりわけ言葉の真実、真実の言葉に生きることを祈り求めましょう。そのために、私たちは神の御言葉を糧として生きるのです。真実の言葉である神の御言葉に養われて、私たちも真実の言葉に生きる者とされます。主の恵みと憐れみを祈り求めて参りましょう。

