2024年12月8日礼拝
マタイによる福音書1章1~17節
アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、……
ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、7:ソロモンはレハブアムを、……
バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、……ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。
こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。
マタイ福音書の冒頭の系図は、日本の私たちには少々読みにくいものでしょう。しかし、ここに記されるのは旧約の神の民の系図です。いま私たちは、その信仰を受け継ぐ新約の神の民とされていて、ですから、これは信仰において私たちの先祖と言うべき方々の系図です。私たちに関係する系図なのだと心得て、大切に読むことが必要です。
多くの人物の名が書き留められる中で、まず「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とあり、アブラハムとダビデが選び出されています。主なる神は、アブラハムの子、ダビデの子として、救い主を遣わされます。すなわち、アブラハムとダビデを見れば、主イエス・キリストがどのようなお方か分かる、ということです。
主なる神はアブラハムを選び出し、カナンへと導かれました。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように」(創世12:2)。アブラハムは、この約束に導かれて忠実に歩み、「信仰の父」と呼ばれるようになりました。そして、この約束はヤコブの子どもであるユダとその兄弟たちに受け継がれ、彼らがイスラエル十二部族の始まりとなりました。こうして、すべての人々を祝福する神の御業が、アブラハムにおいて始められました。
ダビデにも、主なる神から特別な約束が与えられました。「この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える」(サム下7:13)。この約束が与えられて、イスラエルの民は神の民として歩みました。国が失われ、バビロン移住を経てもなお、この約束のゆえに、イスラエルの民は新しい王の到来を待ち望みました。アブラハムに示された神の祝福は、その新しい王において実現するのです。
この系図には、4人の女性の名前が書き留められています。タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻です。ユダヤ人の伝える伝承などを含めて考えると、彼女たちは皆、異邦人だったようです。また、それぞれに複雑な事情がありますが、とりわけ名前ではなく「ウリヤの妻」と記されることが衝撃的です。サムエル記下11章に記されるダビデの罪を指摘するものだからです。ダビデはウリヤの妻と関係し、彼女が子どもを身ごもったことを知り、その事実を隠蔽するために夫ウリヤを戦争の最前線に送って殺害させました。この系図は、ですから、決して見栄えのよい、美しいものではありません。新しい王様が生まれるならば、美しく飾り立てた系図を用意したくなるものでしょう。けれども、むしろ人間の愚かな罪とその悲惨を隠すことなく赤裸々に書き留めているのです。
その意味で、この系図は罪人の系図です。神の民とは決して正しいから神の民なのではありません。むしろ神の民の歴史は、絡みつく罪に苦しめられた、罪を背負う歩みです。けれども、主なる神は決してご自身の民を捨て去ろうとはなさいません。かえって「わたしの目にあなたは値高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え」(イザヤ43:4)とある通り、身代わりを与えてくださいました。
この系図は、「このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」と締めくくられて、いわばひっくり返されるのです。罪の歴史のすべてがこのお方に背負われて、その十字架の贖いのゆえに、神のために取り分けられた、聖なる神の民の歴史とされるのです。そして、今や私たちも、この系図に名前を書き加えられて、主イエス・キリストに背負っていただく者とされています。その意味で、私たちの名前もこの系図に書き加えられている、そう理解することが大切です。私たちの人生がすべて主なる神に背負われる。主イエス・キリストは、そのために、この罪の世に生まれてくださった、まことの救い主であられます。