2025年3月2日礼拝
マタイによる福音書 4章1~4節
さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」
主イエスは、洗礼の後、荒れ野で誘惑を受けました。すなわち、私たちの救い主は誘惑を知らないお方ではありません。それどころか、福音書は、主イエスが誘惑に打ち勝ち、悪魔に勝利したことを伝えています。私たちの救い主は誘惑に打ち勝たれたお方にほかなりません。
主イエスは、聖霊に導かれて、四十日間に及ぶ断食をされました。それは祈りの時を持たれたということです。救い主の御業の始まりに際して、御父に依り頼んで祈られたのです。そして、祈りの時は、誘惑にさらされる試練の時でもあります。祈りにおいて、自らの自己中心な思いと欲望があらわになるからです。主イエスも、私たち、普通の人間と変わらない弱さをお持ちです。祈りの中で、誘惑と戦われたのです。
悪魔は三つの誘惑をしました。今日は、その中の第一の誘惑です。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」。主イエスは、神であり、同時に人であられます。断食の後ですから、主イエスも食べ物を欲していたでしょう。しかし、主イエスは、申命記8章3節を引用して、「人はパンだけで生きるものではない」とお答えになりました。人は食べ物に心動かされて生きるのではありません。また、食べ物以外にも、人は生活を支える多くのものを必要とします。それらは決して軽んじられてはならないでしょう。しかし、それらが満たされればよいということでもないのです。人は食べるために生きるのか、生きるために食べるのか。食べることそのものは決して人生の目的ではありません。食べることに動かされて、人生まで揺さぶられてはならないのです。
さて、悪魔は「神の子なら」と言います。神の子としての力を使えば、飢えをいやすことは簡単だろうということです。すなわち、自分の力を自分のために用いなさいということです。自分の力と賜物を自分のために用いることであり、「自分のために生きる」生き方です。これは、自分の稼ぎで生きることが否定されているのではありません。ここで問われるのは、どん欲であり自己中心です。ルカ福音書12章13節以下で、収穫をすべて自分のものにする金持ちが「愚かな者よ」と言われます。ただ自分のために生きるとき、私たちの人生は決して神の御前に豊かにならず、むなしく終わることをわきまえておかなければなりません。
人は必ずしも自分の力で生きることができません。さまざまな事情により、自分の力で糧を得ることができないことが起こります。ですから、互いに分かち合い、支え合うことが人間の基本なのです。主イエスご自身、他者のために仕えて生きてくださいました。他者である私たちに仕えて、ついには自らをささげて十字架につけられるほどだったのです。
「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。もともとは、荒れ野の旅の中にあるイスラエルの民に与えられた御言葉です。人には食べることが欠かせない、それ以上に、人には言葉が欠かせません。人は言葉で愛情を伝え、言葉で喜怒哀楽を分かち合い、意思を伝え合います。言葉は人を傷つけ、殺し、逆に人を励まし、力づけることもあります。人は言葉によって生きる存在なのです。人は、奴隷のような生活をすると、言葉によって生きることを失います。その点で、出エジプトは言葉によって生きることの回復でした。その中心に神の言葉があります。私たちは、私たちを愛して力づけてくださる神の御言葉に支えられて生きていきます。主イエス・キリストこそまさに神の言葉であるお方です。そのお方に結ばれて、私たちの言葉も人を力づけ、励ますものとして用いられます。私たちは自分のためではなく、人のために言葉を紡ぎます。誘惑に勝利した主イエスが、必ずや私たちを、人を力づける言葉を語る者として用いてくださるでしょう。