2025年4月6日礼拝
マタイによる福音書 26章1~16節
さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(6~13節)
十字架を前にした水曜日、主イエスはベタニアのシモンの家で食事の席に着いておられました。おそらく病気をいやしていただいた感謝として、シモンが主イエスを招いたものと思われます。その席上で一人の女性が主イエスに近づき、主イエスの頭に香油を注ぎかけました。主イエスと女性、そして家全体に、香油のかぐわしい香りが満ちたでしょう。
弟子たちは、「なぜ、こんな無駄使いをするのか」と言って憤慨しました。香油はナルドの香油と言われるもので、非常に高価でした。三百デナリオン以上の価値があるとされ、当時の労働者の一年分の給与に匹敵します。それほど高価なものを一瞬で使ってしまった。それも何のためなのか分からない。「無駄使い」という言葉には「滅び、破滅」という意味があります。このような浪費は身を滅ぼすものだということでしょう。そして、弟子たちは「なぜ」と問いますが、彼女から納得できる答えを得ることは難しかったでしょう。彼女の行為は主イエスへの感謝から出た行為です。おそらく彼女は主イエスによって人生を変えられていた。具体的に何があったのかは分かりません。主イエスがシモンをいやしておられたように、この女性も主イエスによって力をいただいていた。その感謝から、主イエスを愛して、高価な香油を注いでも決して惜しくはないという思いが湧き起こって、この行為へと至っていたのです。
大切なことは、愛するということは人をそのように突き動かすということです。自分の財産のすべてをささげて、それでかまわない。自分自身をささげて、それでよいということもあるのです。愛というものは、時として、自らを顧みることのない行為、合理的な計算を越えた行為へと人を突き動かします。それは大切なことなのです。理性的、合理的ではないかもしれません。しかし、それで良い。
主イエスは「わたしに良いことをしてくれたのだ」とおっしゃいました。この「良い」には「美しい」という意味があります。その美しさは、愛の美しさであり、また目的にかない、時にかなってふさわしいということです。すなわち、神の御心であった。私たちには分からない、しかし、そこに神の御心があるということがある。この女性の場合は、「わたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた」とあるとおりです。彼女はもちろん、弟子たちも、主イエスが十字架つけられることをまだ十分に理解できていません。いや、むしろユダヤ人は主イエスを殺そうと企み、弟子の一人であるユダは主イエスを裏切り、売り渡そうとしていたのです。その企みの中で、主イエスを愛する愛ゆえの出来事が行われる。それは、神の御心にかなう、美しい行為である。
この出来事は、主イエスの葬りの準備であり、十字架を指し示しています。「無駄使い」と言うならば、生けるまことの神、御父がご自身の独り子を、神に逆らう私たちにお与えくださる、それほど大きな無駄使いはありません。また、ご自身を裏切る者のために自らの命をささげる、それほど大きな無駄使いもありません。その意味で、独り子さえも惜しまない神の愛は、まさに身を滅ぼすに至る無駄使いなのです。けれども、そこに神の御心がある。主イエスは、無駄使いにも思える十字架によって、罪と死に打ち勝ち、罪の赦しと永遠の命を勝ち取られたのです。
「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです」(ペトロ一4:8)。計算を越えた神の愛のゆえに、私たちの罪が覆われ、赦されました。こうして、救いはただ神の愛から来ます。愛こそ私たちに罪の赦しを与え、私たちを縛る鎖の縄目から私たちを解き放ちます。私たちにもこの愛が求められています。救い主イエス・キリストに結ばれ、この神の愛に自らをゆだねて生きる者でありたいと祈ります。