2025年3月9日礼拝
マタイによる福音書 4章5~11節
次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」
そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
洗礼の後、主イエスは荒れ野で誘惑を受けました。今日は、その第二と第三の誘惑を取り上げます。第二の誘惑は、主イエスが神の子なら、神殿の屋根から飛び降りても天使たちが守るだろう、それが神の子であることの証明になる、というものです。今の私たちも、主イエスこそまことの神であると誰が見ても分かるようなしるしや証明があるとよいと思うことがあるでしょう。しかし、神とは人が理解できるような仕方で証明できるお方なのでしょうか。むしろ人の知恵の及ぶお方ではないからこそ、私たちは神を信じて生きようとするのではないでしょうか。また、必要もないのに自分を危険にさらして、助けられるかどうか確認をするというのは、神を疑ってかかるようなものであり、神を試みることにほかなりません。主イエスは、「あなたの神である主を試してはならない」(申命記6:16)と答えて、この誘惑をしりぞけられました。
悪魔は、聖書の言葉を用いて誘惑しました。このことにも注意が必要です。詩編91編が用いられていて、この詩編は、主なる神が私たち信仰者を守り導いてくださると言い、その神への信頼を教えています。ところが悪魔は、その一部を切り取って、危険なことをしても大丈夫だとそそのかします。聖書の一部が切り取られて、まったく違うことが教えられ、その根拠とされているのです。そのような読み方に陥らないために大切なことが、聖書のほかの箇所を確認することです。こちらにはどう書かれているか、あちらではどうかと、ほかの箇所を参照する。宗教改革は「聖書のみ」を大切にしましたが、「聖書のみ」とは「聖書全体」でもあります。聖書全体からまんべんなく学ぶのです。そうすると、聖書の一部分を切り取ってしまう過ちから守られます。
第三の誘惑は、この世の富と権力を与えるというものです。悪魔は「ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言います。しかし、本当に与えることができたわけではありません。これは偽りであり、欺きです。偽りと欺きをもって、そそのかす。それが誘惑です。また、悪魔は「ひれ伏してわたしを拝むなら」と言います。ここに誘惑の本質があらわになっています。誘惑は偶像礼拝に行き着きます。財産や権力そのものは決して悪いものではありません。けれども、それらを追い求め、執着するとき、偶像礼拝が起こる。財産や権力は、本来、人が幸せになるための手段に過ぎません。手段が目的化するとき、それらは偽りの神となり、偶像礼拝となり、悪魔的なものになる。主イエスは、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(申命記6:13)とおっしゃって、この誘惑をしりぞけられました。神を神とし、第一とするとき、私たちは、神ならぬものを神とする過ちから守られます。
悪魔は、こうして主イエスから離れました。しかし、十字架において悪魔が再び主イエスに迫ります。主イエスに、「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(マタイ27:40)という声が浴びせられたのです。主イエスは、その嘲りの声を耐え忍び、十字架につけられたまま、死んでくださいました。これが聖書の示す、まことの救い主です。こうして、主イエスは、私たちの味わう誘惑をすべて、救い主として味わい尽くしてくださいました。
「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4:15)。主イエスは、誘惑や試練に遭うだけでなく、復活し、勝利されました。この主イエスに結ばれて、私たちは時にかなった助けをいただき、誘惑に打ち勝つ者とされます。互いに励まし合い、忍耐強く誘惑に打ち勝つ信仰の歩みに励んで参りましょう。